講談社電子文庫    零戦——その誕生と栄光の記録 [#地から2字上げ]堀越二郎 著   目 次  まえがき  序 章 昭和十二年十月六日  第一章 新戦闘機への模索  第二章 不可能への挑戦  第三章 試験飛行  第四章 第一の犠牲  第五章 |初《うい》 |陣《じん》  第六章 第二の犠牲  第七章 太平洋上に敵なし  終 章 昭和二十年八月十五日    まえがき 「|零《ゼロ》|戦《せん》」とは、言うまでもなく、太平洋戦争前夜から終戦まで、日本海軍の主力戦闘機として戦い抜いた「|零式艦上戦闘機《れいしきかんじょうせんとうき》」のことである。私は、昭和十二年から、主任設計者として、この零戦の誕生と、それ以後のいろいろな改造にいたるまでの仕事にたずさわった。  太平洋戦争が終わってから、|今年《こ と し》はすでに二十五年になる。この間、日本はめざましい経済的復興をとげ、もはやあの戦争のことが人の口の|端《は》にのぼることも少なくなってきた。日本人ならだれしも、あの悪夢のような日々のことを、はやく忘れ去りたいと思うのはとうぜんであろう。  そのなかにあって、零戦は、終戦後いまもなお、国の内外でくりかえし語りつがれている。南方の島で|朽《く》ちかけていた零戦が一機、日本に送り返されたこともあったし、カナダでは、零戦の|残《ざん》|骸《がい》を拾い集めて、三機も、もとのように飛べる零戦に復元しようとしているとも聞く。  このように零戦がいつまでも人びとの心の中に生きていてくれるのはなぜであろうか。かつて、海軍航空本部で戦闘機の技術面を担当した故|巌《いわ》|谷《や》|英《えい》|一《いち》元技術中佐は、敗戦の衝撃のいまだ去りやらぬころ、その著書の中で、 [#ここから1字下げ]  敗戦によってすべてを失った日本国民に対して、外国人のなかに今日なお|畏《い》|敬《けい》の念が残っているとすれば、それは二大洋の空をおおうて活躍した零戦を作りだし、これを駆使しえた能力をもつ民族としてであろう。 [#ここで字下げ終わり]  と語っている。  私が自分の口から言うのはおかしいが、たしかに、日本人が、もし一部の人の言うような|模《も》|倣《ほう》と小細工のみに|長《た》けた民族であったなら、あの零戦は生まれえなかったと思う。当時の世界の技術の潮流に乗ることだけに終始せず、世界の中の日本の国情をよく考えて、独特の考え方、哲学のもとに設計された「日本人の血の|通《かよ》った飛行機」——それが零戦であった。こんなところに、零戦がいまも古くならず、語りつがれている理由があるのであろう。  思えば、昭和十二年当時、おりから悪化しつつあった内外の情勢を反映して、海軍から出されたこの戦闘機の性能要求は、不可能と思えたほど|苛《か》|酷《こく》なものであった。その不可能を可能にするために、私たちの設計グループは一丸となって努力した。その途上では、テスト飛行における海軍の二人の尊い犠牲者をはじめとして、数多くの人の献身的な協力や、関連産業の支えがあったことを忘れることができない。また、世界の|先《せん》|達《だつ》によって開拓された技術を導入し、それに多くのものを|足《た》して私たちに伝えてくれた先輩たち、さらには、こういう環境をととのえて、全身を打ちこめる仕事を与えてくれた海軍や会社に深く感謝しなければならない。まさに、零戦は、直接の関係者ばかりでなく、広く当時の日本人全体の努力と|工《く》|夫《ふう》が結晶したものだったと思う。  今日、日本の技術は日進月歩の発展ぶりを示しているとはいえ、産業革命以来二百年の歴史をもつ欧米の技術にくらべ、その歴史はまだ浅い。また、その技術がよって立つこの国土の資源の乏しさは宿命的なものであり、技術の水準も、それを支える人の数も、まだまだ十分とはいえない。そのような日本にあって、これからの若い世代が、たんに技術界だけでなく、すべての分野で日本の将来をより立派に築いていくために、誇りと勇気と真心をもって努力されることを念願して、私はこの本を書いた。  それと同時に、私が尊敬する“ヘリコプターの父”イゴール・シコルスキーの自叙伝に、「自分の仕事に根深くたずさわった者の生涯は、一般の人の生涯よりもはげしい山と谷の起伏の連続である」と書かれているように、大きな仕事をなしとげるためには、|愉《ゆ》|悦《えつ》よりも労苦と心配のほうがはるかに強く長いものであることを言いたい。そして、そのあいまに訪れる、つかのまの喜びこそ、何ものにもかえがたい生きがいを人に与えてくれるものであることを、この私の|拙《つたな》い小著から|汲《く》み取っていただけるなら、著者としてこれにすぎる喜びはない。   昭和四十五年三月一日 [#地から2字上げ]|堀《ほり》|越《こし》|二《じ》|郎《ろう》    序章 昭和十二年十月六日     世界最強の戦闘機の計画  昭和十二年十月六日のことである。私は、名古屋市の南端、港区|大《おお》|江《え》町の海岸埋立て地にあった三菱重工業名古屋航空機製作所へ、いつものように定刻すこしまえに出勤した。十年まえ入社して以来、飛行機の設計という仕事にたずさわってきた私の仕事場がここだった。  この日は、さきごろわれわれの設計グループが設計して量産にはいっていた海軍戦闘機の改修設計などで、あいかわらず忙しい一日になりそうだったが、それほどむずかしい仕事はない予定だった。私は、会社の本館についていた時計台を見上げながら、その玄関をはいり、いつものように三階まで階段をのぼると、機体設計室のドアを押して中にはいった。  広い部屋には、半数以上の設計課員のほかに、すでに設計課長の服部さんが来ており、待ちかねたように、私を席に呼んだ。そして、私の顔を見ながら、 「来ましたぜ」  と差し出されたのが、カナまじりの和文タイプで打たれた一通の書類だった。見れば「十二試艦上戦闘機計画要求書」とある。私は、くるものがきたな、と思った。というのは、当時、海軍から新しい戦闘機の設計を民間の会社に発注する場合には、このような「計画要求書」というものを交付することになっていたが、すでにこの五月に、いま受け取った要求書の粗案が交付されており、私は海軍の航空本部に呼ばれて意見の交換をしたこともあったからだった。「十二試」とは昭和十二年試作発令、艦上戦闘機とはもちろん航空母艦上から発着する戦闘機のことである。  しかし、その内容にざっと目をとおした瞬間、私は、われとわが目を疑った。五月以降私が予想していた新戦闘機でも、たしかに、すでにいままでに作った戦闘機をそうとうレベル・アップしたものではあったが、私はさほど驚きはしなかったし、またそう困難なくこなせる自信もあったのである。ところが、この要求書は、当時の航空界の常識では、とても考えられないことを要求していた。もし、こんな戦闘機が、ほんとうに実現するのなら、それはたしかに、世界のレベルをはるかに抜く戦闘機になるだろう。しかし、それはまったく虫のよい要求だと思われた。  全体で二十項目近くこまごまと記されたこの要求書は、とくに重要なところだけを要約してみると、つぎのような内容をもつものであった。  用途 [#ここから3字下げ] |掩《えん》|護《ご》戦闘機として、敵の戦闘機よりもすぐれた空戦性能をそなえ、|迎《げい》|撃《げき》戦闘機として、敵の攻撃機をとらえ、撃滅できるもの。 [#ここで字下げ終わり]  大きさ [#ここから3字下げ] 全幅、つまり主翼のはしからはしまでの長さが十二メートル以内。 [#ここで字下げ終わり]  最大速度 [#ここから3字下げ] 高度四千メートルで、時速五百キロ以上。 [#ここで字下げ終わり]  上昇力 [#ここから3字下げ] 高度三千メートルまで三分三十秒以内で上昇できること。 [#ここで字下げ終わり]  航続力 [#ここから3字下げ] 機体内にそなえつけられたタンクの燃料だけで、高度三千メートルを全馬力で飛んだ場合、一・二時間ないし一・五時間。 増設燃料タンクをつけた|過《か》|荷重《かじゅう》状態で、同じく一・五時間ないし二・〇時間。ふつうの巡航速度で飛んだ場合、六時間ないし八時間。 [#ここで字下げ終わり]  離陸滑走距離 [#ここから3字下げ] 航空母艦上から発進できるようにするため、むかい風秒速十二メートルのとき七十メートル以下(無風ならこの二・五倍内外)。 [#ここで字下げ終わり]  空戦性能 [#ここから3字下げ] |九六《きゅうろく》式艦上戦闘機二号一型に劣らないこと。 [#ここで字下げ終わり]  機銃 [#ここから3字下げ] 二十ミリ機銃二|挺《ちょう》。七・七ミリ機銃二挺。 [#ここで字下げ終わり]  無線機 [#ここから3字下げ] ふつうの無線機のほかに、電波によって帰りの方向を正確にさぐりあてる無線帰投方位測定機を積むこと。 [#ここで字下げ終わり]  エンジン [#ここから3字下げ] 三菱製|瑞《ずい》|星《せい》一三型(高度三千六百メートルで最高八百七十五馬力)か、三菱製金星四六型(高度四千二百メートルで最高一千七十馬力)を使用のこと。 [#ここで字下げ終わり]     |苛《か》|酷《こく》な要求を生んだ背景  こういう戦闘機を、海軍はわれわれに作れといっているのだ。私は、要求書を机の上に置くと、どっかと椅子に腰をおろした。これらの項目は、ざっと全体をながめまわしただけで、私の心を重苦しくさせるに十分であった。  用途の項に明記されているように、この戦闘機は、掩護戦闘機であるとともに、迎撃戦闘機でもなくてはならない。掩護戦闘機とは敵地深く進入し、爆弾によって敵を攻撃しようとする味方の攻撃機を、敵の戦闘機から守る役目を持つ戦闘機である。だから、とうぜん、敵地深く進入できるだけの長い航続力と、敵の戦闘機に打ち勝つに十分な速度と空戦性能が要求される。また、迎撃戦闘機とは、攻めてくる敵の攻撃機や掩護戦闘機を迎え撃つ戦闘機だ。とうぜん、上昇力と速度を生命とし、また、機銃などの火力も大きくなくてはならず、もちろん、敵の掩護戦闘機を打ち負かすだけの空戦性能をもっていなくてはならない。  とくに私の目を|釘《くぎ》づけにしたのは航続力と空戦性能の項であった。当時の戦闘機がふつうもっていた航続力を大幅に二倍程度にまで伸ばし、しかも当時、空戦性能においては、世界にその右に出るもののなかった九六式艦上戦闘機、略して九六艦戦の二号一型よりすぐれた空戦性能をもたなくてはならない。速度も、九六艦戦の最大速度四百五十キロを大幅に抜く五百キロを要求していた。これは当時活躍していたどの戦闘機にもまさるものであった。さらにその九六艦戦では七・七ミリ機銃二挺しかなかったものを、それより格段に重装備で、七・七ミリ機銃とはちがい、爆薬をしこんだ|炸《さく》|裂《れつ》|弾《だん》を発射する二十ミリ機銃を、二挺加えよといっている。無線機の項に記されていた無線帰投方位測定機は、従来、爆撃機や偵察機など長距離飛行が必要な飛行機につけられていた例はあったが、一人乗りの戦闘機にこれを装備するのは、世界でもはじめてのことであった。これを見ても、この戦闘機がいかに長大な航続力を要求されていたかがわかる。  たとえば、ほかの性能を犠牲にして、航続力なら航続力だけ、空戦性能なら空戦性能だけが、ずば抜けてすぐれた飛行機を作るのは、そうむずかしいものではない。しかし、この要求では、航続力と空戦性能がともに世界のレベルからずば抜けて高く、しかも、その他の性能の一つ一つに、まだ試作段階にあるものまで含めた外国の新鋭戦闘機にくらべても、最高のレベルにはいることを要求していた。たとえていえば、十種競技の選手に対し、五千メートル競走で世界記録を大幅に破り、フェンシングの競技で世界最強を要求し、その他の種目でも、その種目専門の選手が出した世界記録に近いものを要求しているようなものであった。そのような能力を一身にそなえた戦闘機など、作れるだろうか。  とくに、空戦性能に対して、長大な航続力、二十ミリ機銃などの要求は、常識的に考えても、おたがいにあいいれない要素であった。空戦性能をよくするには、身がるにひらりひらりと飛べることが必要だから、とうぜん、機体ができるだけ軽くなくてはならない。しかし、航続力をのばすためには、それだけ多く燃料を積まねばならず、また、そのために必要となる装備のため、とうぜん機体の重量がふえる。これに加えて、いままでなかった二十ミリ機銃を装備するとなると、ますます重量がふえてしまう。これは、まったくのジレンマだった。  私は十年来、飛行機設計の仕事をやってきて、戦闘機は、「こちら立てればあちらが立たず」という性質の強いものであることを、いやというほど思い知らされていた。戦闘機はとうぜん、ほかの飛行機にくらべて、|桁《けた》ちがいに激しい運動をする。そのため、遠心力によって機体のすべての部分の重量が増した状態になり、もっとも激しい運動をするときは、ふつうの状態の七倍にもなるのである。飛行機とは、そもそも空中に浮かんでまっすぐ飛んでいるだけでも馬力を必要とする乗り物である。だから、空戦における高速飛行や、激しい急上昇や、急旋回を生命とする戦闘機では、なおさらのこと馬力を食うことになり、それだけ機体の重量を減らすことが重要な課題となってくるのだ。  ただでさえ、このような困難な宿命を背負っている戦闘機なのに、この要求書では、なにからなにまで機体の重量をふやす要素ばかり多く、この困難をさらに何倍にもしていたのであった。  私には、この要求書がつくられた会議の雰囲気が、目に見えるようだった。要求する側の人間ばかりが集まって、あれもこれもと盛りこんでしまったのだ。その人たちは、それぞれの部門のベテランで、日本をとりまく世界の情勢を考えてのことにちがいない。  とりわけ、五月の要求案にはなかった長大な航続力の要求は、この年の夏に起こった日中戦争の中国戦線における教訓によるものにちがいなかった。つまり、中国戦線へ戦闘機の護衛なしで、はだか同然の出動をした日本海軍自慢の新鋭攻撃機が、甘い予想に反して、迎えうつ敵の戦闘機にばたばたと落とされるという事態が起こったのだ。  そして、そののち、攻撃機の護衛についた九六艦戦が、海軍の専門家の期待したとおりの強さを発揮した。そこで、あらためて、戦闘機によって空の主導権を握ること、つまり制空権を確保することが航空戦の基礎であることが、はっきりと実証されたのである。  大型機を落とすために二十ミリ機銃をもち、同時に、攻撃機を護衛して敵地まで長距離を往復し、しかも、そこで待ちかまえている敵の戦闘機にうち勝つ空戦性能をももたせたいという要求は、このようなことを背景にして生まれたわけであろう。  私は、この計画要求書に、日本の国のせっぱつまった要請を聞く思いがした。 「これはまた、難題をつきつけてきたものだな」  私は、秋の日がすでにかげりかけた設計室の中で、しばらくのあいだ、この書類を見つめたまま、考えこんでしまった。  この十二試艦上戦闘機、略して十二試艦戦こそ、のちに太平洋戦争の空の王者として君臨した「零戦」の試作段階の呼び名であった。     はたして、こんな飛行機が設計できるか  その日から、私の頭は、十二試艦戦の構想に、ほとんど独占されることになった。私たちの仕事場があった三階建ての鉄筋ビルの本館の屋上に上がると、西に鈴鹿山脈、西南の方向に伊勢湾が見わたせた。天気のよい日には、ゴルフのスウィングの練習にもってこいだったが、いまや、それどころではなくなった。あれやこれやと、霧のように|涌《わ》いては消える新戦闘機の構想に疲れた頭を、ようやく休ませてくれる休憩室が屋上だった。  私たち設計を担当する者にとって、当時、私たちをとりまく周囲の状況はまことに苛酷であった。まず第一に、日本では大馬力のエンジンの開発が遅れていたことである。このようなあらゆる性能をかねそなえた戦闘機——とりわけ比類のない航続力をもたせ、艦上戦闘機としてはじめて二十ミリ機銃を備えるとなると、必然的に大きくて重い機体にならざるをえない。こういう機体に高速とすぐれた空戦性能をもたせるためには、軽くて大きな馬力をもつエンジンが必要だ。そんなエンジンが、残念ながら手にはいらない当時の日本のことであれば、残された道は、機体を当時の常識では考えられないほど軽く設計することしかない。  第二に、いま述べた重量の軽減とも関係することだが、資源の乏しい日本の国にしてみれば、材料を節約できるような設計も必要だ。日本が事あるときにぜったい困るのは、燃料と原料である。しかし、人手はヨーロッパのどの一国にも負けないし、アメリカとくらべても三分の一はある。だから、人手と材料をはかりにかければ、材料の節約を優先する設計をしなければならない。アメリカやドイツでは、製作の人手を節約するために、材料をぜいたくに使う方式、たとえば、大型の板を打ち抜いて部品を作る傾向が現われた。が、日本は|野《や》|暮《ぼ》といわれようとも、小部品を組み合わせたビルト・アップ構造を守るべきだった。この点、アメリカやドイツとちがってイギリスは日本と似た立場にあり、すでにこの方針をとっていた。  第三に、当時の習慣として行われていた「競争試作」という制度である。競争試作とは、軍が二社か、それ以上の会社に試作を発注し、すぐれているほうをとる制度だが、そこに大きく作用するのは、軍のパイロットたちが、われわれの作った飛行機を受け入れてくれるかどうか、という問題である。いうまでもなく飛行機にはパイロットが乗りこむ。どんな優秀な機を作っても、パイロットたちが抵抗なく受け入れてくれなければ、競争試作で採用されない。設計をする者は、パイロットの「好み」も考慮のうちに入れておかなければならないのだ。  私は、こう考えると、正直なところ、ゆううつになってきた。はたして、こんな条件のもとで、要求されているような飛行機ができるものだろうか。ようやく冷えこみがきびしくなった夜道を家に急ぎながら、不安がだんだん広がっていくのを感じないではいられなかった。  このような不安な気持ちの中で、私をどこかで支えてくれていたものがあったとすれば、それは、私のそれまでの経験であった。少年時代に飛行機にあこがれ、大学の航空学科で学んで、飛行機の設計を志し、その思いどおりの仕事にたずさわることになったその時まで、私の毎日の生活は、すべて飛行機とともにあった。そして、この十二試艦戦にいたるまでに、すでに、二回にわたって海軍の戦闘機の設計を経験してきていた。その二回とは、昭和七年試作発令の七試艦上戦闘機、略して七試艦戦と、昭和九年試作発令の九試単座戦闘機、略して九試単戦とである。いずれも、経験不足の私にとっては、ひじょうな難事業であった。しかし、その困難もなんとか乗りこえてきた。とくに、九試単戦は、最初、単座戦闘機、つまり一人乗りの戦闘機としての条件しか示されなかったが、のちに九六式艦上戦闘機として海軍に採用され、立ちおくれていた日本の飛行機をいっきょに世界のレベルまで飛躍させたことで、内外から高く評価されていた。  またまた、目の前に立ちふさがった「十二試艦戦」という大きな壁をまえにして、私は自分のいままで歩んできた道に思いをかえさないではいられなかった。    第一章 新戦闘機への模索     飛行機にかけた夢  十二試艦戦の計画要求書が交付された年からさかのぼると三十四年になるが、私は明治三十六年に群馬県藤岡市に近い田舎に生まれた。この年は偶然ながら、アメリカでライト兄弟の飛行機がはじめて飛んだ年でもあった。  第一次世界大戦がはじまり、飛行機が戦争に使われだしたころは、私はまだ小学生であった。新聞の欧州大戦の記事、とくに、西部戦線での空中戦の記事や、飛行機を種にした物語を満載した雑誌「飛行少年」「|武侠《ぶきょう》世界」などを読みふけった。とくに西部戦線の花形だったニューポール、スパッド、フォッカー、ソッピーズなど、ヨーロッパ各国の新鋭戦闘機の名は、私の幼い血をわきたたせた。また、自分が作った軽い小さい飛行機に乗り、野こえ、川こえ、低空飛行を楽しんでいる夢をよく見たものである。  こうした飛行機への関心は、中学から高校へ進むにつれ、いつしか私の心の表面からは消えていった。しかし、大学進学にあたってコースを決めなければならなくなったとき、少年時代の記憶が心の底からよみがえってきた。そして、しだいに飛行機をやりたいという気持ちは動かしがたいものになった。ちょうど、兄の学友に、開設後まもない東大工学部航空学科の助教授をしている|方《かた》がいたので、さっそく話を聞きにいき、とくに航空機機体学にひかれた。そして、大正十三年四月、私は東大の航空学科に入学した。入学当時の航空学科は、学生数わずか二十六名、教官も教授から非常勤講師まで含めて十三名という小世帯であった。  私がはじめて飛行機に乗ったのは、入学の翌月であった。そのころ、東大の航空学科では、陸軍か海軍に頼んで、学生を飛行機に乗せてくれるという習慣があった。それを知っていた私たちは、一日も早く飛行機に乗ってみたいと願っていた。そういう私たちの願望は、意外に早くかなえられることになった。海軍から派遣されて同じクラスで勉強していた海軍機関大尉が、一年生一同を千葉県の|霞ケ浦《かすみがうら》航空隊へ案内してくれたからである。  航空隊へ着くと、まず、|格《かく》|納《のう》|庫《こ》へ案内された。いろいろな飛行機がある。どれもこれも、支柱と針金を張りまわした主翼が二枚ある複葉機だった。  その一つであるイギリスから輸入したアブロ練習機が格納庫から引き出されると、いよいよじっさいの飛行となった。胸をときめかせながら、パラシュートを負い、飛行帽、飛行メガネをつけ、|座席房《コツクピツト》にはいる。きゅうくつなシートにすわり、安全バンドをしめてもらった。エンジンがかかり、飛行機が走りだした。下を見ると、地面が|縞《しま》もようとなって後ろに流れていく。地面からくるゴツゴツという反動がなくなったと思ったら、車輪は地面を離れていた。下を見ようとして顔を外に出すと、強い風が顔に吹きつける。高度が上がるにつれ、下界は箱庭のように見えてくる。さらに上昇すると、下は色塗りの地図のようだ。  とつぜん前方に見えていた地平線が地面とともに右に回り、機首の下にたぐりこまれはじめた。と同時に、頭が下に押しつけられ、首を起こし手を上げるのに、異常に力がいる状態になった。これは、飛行機がスタント、つまり、曲技飛行にはいったためだったが、何が起こりつつあるのかまったくわからなかった。そのまましばらくすると、地面はさっきと逆に回転して、地面と飛行機の位置の関係は正常にもどり、同時に頭と手にかかっていた異常な力からときはなたれた。  すると、こんどは前方の地平線が下へ沈みはじめた。頭と手が、まえのように異常に重くなり、地面がまったく見えなくなる。すぐに反対側の地平線が後ろ上方から現われ、地面が頭上におおいかぶさった。首ねっこをもって引き上げられる感じがし、みぞおちにいやな感覚が走る。地面はさらに回転を続け、地平線は下方に没する。また頭と手足が重くなると同時に、はじめに見えていた地面と地平線が前上方から降りてきて、やっと正常な飛行状態にもどった。  そのまま、飛行機はしばらく何事もなく飛んだ。だが、ほっとするまもなく、こんどは急に体が横に押しつけられ、地面がななめに回りながら、前方からだんだん近づいてくる。体は横に押しつけられたままで、胸がむかむかしはじめた。何回ぐらい回ったろうか、やっと地面の回転が止まった。頭と手が下に押しつけられ、地平線が上の方から前方にさがって正常な位置にくるとともに、すべてがもとの状態にもどった。  これでスタントは終わりだった。飛行も終わって、飛行機は着陸する。スタントは、はじめのが左垂直旋回、二番目のが宙返り、最後のがきりもみ[#「きりもみ」に傍点]であった。予告も説明もなしに行われたので、私には飛行機がどう動いたのか、さっぱりわからなかった。地上に降りた私は、酔ったように頭がふらふらしていた。  三次元に運動する飛行機は、地上のどんな乗り物も比較にならないほど複雑ではやい動き方をする。その運動が、乗っている人にあたえる影響はひじょうに大きい。機をあやつる操縦者は、異常な力を体全体にうけ、外界の異常な動きを見ながら、飛行機を自分の手足のように自由に動かすことができなければならない。それには、長いきびしい訓練が必要である。飛行訓練をつむと、地面と地平線が見えているかぎり、自分の乗った飛行機が、地面に対してどういう姿勢で、どういう動きをしているのかが、刻々、感じとれるようになるのである。このように身を|挺《てい》して空に|挑《いど》む操縦者たちの負担をなるべく軽くするために、操縦しやすい飛行機を作ることは、設計者の使命だと痛感した。この体験は、飛行機設計に対する私の夢をさらにかきたててくれた。  以後三年の大学生活は、じつに楽しいものだった。ただ、航空に関する科学・技術は、その|発祥《はっしょう》地である欧米でもまだ歴史は浅く、体系づけられていなかった。だから、われわれの航空学科でも、講義の体系がなく、寄せ集めの感じだった。しかし、教室の雰囲気は、開拓時代にふさわしく、自由で新鮮であり、世帯が小さいため、教官と学生のあいだも、学生同士もひじょうに親密だった。私は航空技術に関して、ひたひたと押し寄せてくる時代の要請を背に感じながら、勉強にはげんだ。  こうして、三年間の大学生活を終え、私は三菱内燃機株式会社、のちの三菱重工業の、名古屋航空機製作所に、機体設計係の一員として勤めることになった。     三菱に入社したころ  当時、この名古屋航空機製作所は、群馬県|太《おお》|田《た》町の中島飛行機と並んで、日本の軍用機メーカーの|双《そう》|璧《へき》であった。  私の所属する設計係のあった建て物は、入社当時はまだ、木造モルタル塗りの細長い|平《ひら》|屋《や》建てで、入社祝いに兄が買ってくれた新しい靴で床を歩くと、ギシギシと板がきしんだのを覚えている。工場の西側はかなり広い空き地になっていて、|萌《も》え出した雑草がつらなっていた。昼休みには、当時としては珍しいゴルフのスウィングをしている人の姿なども見られ、たまには社用の練習機が発着していた。  この設計係の部屋へ、私は希望に胸をふくらませてはいっていった。部屋のまんなかに通路を残して、両側に整然と並べられた机には、みな一様に製図板がつけられ、全部で五十人ぐらいの人が、あるいは製図板にかがみこみ、あるいは図や青写真を手にして話し合い、立つ人あり、すわる人ありで活気に満ちていた。  とくに入社式のような形式ばったものはなく、四月のうちにいつでも好きなときに来いという、ごくのんびりしたものだった。直接の上司となる係長の席を教えられて歩み寄ると、髪を五分刈りにした浅黒い大柄な人が、椅子からぬっと立ち上がって、 「私が服部です」  と挨拶された。この人が、以後ずっと私たちの上に立って三菱の機体設計課を率いていった|服部《はっとり》|譲次《じょうじ》氏だった。当時係長だった服部さんは、私をつれて一つの設計グループのところに行き、 「しばらく、ここでいっしょにやってもらうからよろしくたのみますよ」  と、グループの面々に私を紹介してくれた。そのグループは、ドイツから|招聘《しょうへい》した大学教授・バウマン博士の指導のもとに、陸軍の戦闘機を設計しているグループだった。その長の|仲《なか》|田《た》技師は、設計係で服部さんに次ぐ方であり、私が赴任するのを待っていてくれた。  新入りの私に対して、グループの人はみな親切だった。机はなるべく明るいところがよかろうというわけで、窓ぎわにしてくれた。ただ、夏は窓をあけておいたので、海からの風の強い八月などは、机や図板の上が、こまかい砂ぼこりでじゃりじゃりした。消しゴムのかすを払い落とす羽根ぼうきで、よく砂ぼこりを掃き落としたものだった。  この設計係には、われわれの先輩である設計技師のほかに、技師について助手的な仕事をする|技《ぎ》|手《て》がおり、その下に入社後、日の浅い図工という製図専門の要員もいた。また別室にはトレーサーと呼ばれる単純な製図を担当する女子雇員がかなり大ぜいいて、技手などのなかには、このトレーサーと仲よくなって結婚する人もいた。私のあてがわれた机の向かい側にいた先輩の技師や、同じ東大の航空学科から同期に入社した友だちと、昼休みに会社の外へ出て、一ぱい五銭なりのコーヒーを飲みながら、「なかなか|別《べつ》|嬪《ぴん》のトレーサーがいるぞ」などと話したものである。  こうして、よちよち歩きながらも、私の設計技師としての仕事がはじまった。会社の仕事に精を出すいっぽうで、下宿に帰ると、大学を卒業するときに教授から、「卒業しても勉強は怠るな」と言われたとおり、アメリカ、イギリス、ドイツなどの航空雑誌をとりよせてよく読んだものだった。もっとも、ドイツ語の雑誌などは、五行も読まぬうちに眠たくなるのがオチだったが、意気ごみだけは一人まえだった。     はじめて、設計をまかされて  このころの日本の航空工業界は、ほかの先進国にならって、やっと専門に飛行機を作る民間の会社の基盤ができたばかりであった。そして、陸軍や海軍の第一線機については、何社かに競争試作をさせ、勝ったほうの試作機が、軍に採用されて量産の注文を受けるという習慣ができてきたばかりの時代だった。  おりから、第一次大戦のあと、ワシントン、ロンドンと海軍軍縮会議があいつぎ、日本の軍艦の保有率は大幅に制限されてしまった。しかし、国際情勢はまったく予断を許さぬけわしさを加えていたから、軍艦によらない兵力の拡充をはからなければならなかったのである。  そこでとうぜん目を向けられたのが航空兵力だった。しかし、日本の航空兵力はまったく立ち遅れており、海軍はそれを痛感していた。そして、その基礎となる航空技術について、外国への依存を完全に絶ち切ろうとする政策を強く打ち出した。その政策が、いわゆる「航空技術自立計画」といわれるものであった。  その計画は、昭和六年から七年にかけて立案された。具体的には、まず、重点的な機種の試作という形と、それまで小規模で分散していた航空技術の研究機関を、拡大し充実させた一大総合機関、「海軍航空|廠《しょう》」の設立という形になって現われた。  昭和七年、この計画の試作面における第一弾として、「七試」、つまり昭和七年試作発令の五機種が発注された。私がはじめて設計主任を命じられたのは、このうちの一つである七試艦上戦闘機だったのである。  こうして、零戦が生まれるいしずえをきずいた零戦の前身たちの歴史がはじまった。  そのとき、私は入社して、五年になっていた。この五年のあいだに、飛行機の性能とか強度の計算や、部分的な設計を経験した。また、会社から派遣されて、ドイツとアメリカの飛行機工場にはいって、工場を視察し、設計者と討論をしたり、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカの工場見学、各国の航空技術に関する刊行物の調査などにも手をつけていた。それらの経験から、日本でも適当な方針と組織、規模があれば、小型機で彼らに追いつくことは、|一《いっ》|足《そく》飛びには不可能だが、そう長い年月はかかるまいという考え方をしていた。そのくらいが私の経歴だった。     失敗から学んだこと  私には、設計主任という責任は、ひじょうに重荷に感じられた。だが、責任の重さに、いつまでも押しつぶされているわけにはいかない。未熟な私を、新艦戦の設計主任に命じた会社の意図はどこにあるのか。それほど経験はないが、かえってそれゆえに、マンネリズムを打ち破れるのではないかと期待したからではないだろうか。もっと大きく考えれば、日本の航空工業が、いつまでも世界の|後《こう》|塵《じん》を拝していてよいものか。私は気をとりなおして、まっこうからこの仕事にぶつかっていった。  しかし、私にとって新しい飛行機の設計をまかされるのは、これがはじめてであり、まず、基礎型を決めるのに迷いに迷った。私は、翼を支える張り線や支柱のない、片持ち式単葉型という新しい型式をやってみたかった。が、なにぶん、日本でははじめてのこころみなので、ぜんぜん資料がない。当時、世界の戦闘機界の大勢をしめていた複葉型にすれば、会社の工場にも、設計室の先輩のところにも、設計室の図庫の中にも、参考資料はいくらでもある。この型式ならことはかんたんだ。しかし、スタートで|易《やす》きに|就《つ》くと、競争相手とのつばぜり合いになって、たとえ勝ったにしても、つぎの試作では苦しまなければならない。それに、片持ち式単葉型は、外国でどんどん試作研究されているというから、いつ成功者が現われないともかぎらない。こう考えて、私が片持ち式単葉型という困難な|途《みち》を選ぼうと決心しかかったとき、航空本部技術部員で戦闘機を担当していた|佐《さ》|波《は》|次《じ》|郎《ろう》機関少佐が、 「だいじょうぶだ。ぜひやってみてくれ」  といって、私に踏んぎりをつけさせてくれたのは、ほんとうにありがたかった。  こうして私は、艦上戦闘機として世界ではじめて、片持ち式単葉型を採用した。胴体には、これも|斬《ざん》|新《しん》なセミ・モノコックという金属張りの型を採用したが、翼は残念ながら金属張りにできず、丈夫な|麻《あさ》|布《ぬの》を張った、|羽《は》|布《ふ》張りという型にとどめることにした。それは社の工作技術者が、金属外板を小形の翼に張る|鋲《びょう》打ち作業について、自信ある答えをしてくれなかったからである。また、主翼の親骨にあたる|主《しゅ》|桁《けた》にも、海軍がすでに手がけていて、のちに九六艦戦から零戦へと引きつがれた新しい様式をとり入れた。  このように、艦上機として|殻《から》を破った斬新な基本形態や構造を採用しながら、当時の私は、部下にすみずみまで適切で細かい指導があたえられなかった。意|余《あま》りて|技《わざ》伴わざる設計主任であった。いわば、上から下まで欲求不満の|塊《かたまり》のまま、ただ締切り日にまに合うようにと、仕事を進めたような次第だった。  つぎつぎと、自分たちの描いた図面どおりのものが生まれてくると、ずいぶんアラが目につく。いままで他人の作ったものを見るときには気にもとめなかったような細かい点まで気になった。最大の不満は、全体の形であった。厚い翼、前方の視界をよくするために座席のところを盛り上げた胴体、丸っこい垂直尾翼、太いズボンのような固定脚、まるで鈍重なアヒルだ。つぎの不満は、機体表面に出っぱったものが多すぎることだ。高速飛行のさい、空気抵抗の最大の原因となる表面摩擦のたねが、あまりに多いのにがっかりした。装備品や付属品の並べ方も乱雑であり、機体の止め金具に、重量上、美観上、満足できない点が多かった。  だが、とにもかくにも昭和八年三月、私たちがベストをつくした七試艦戦の試作一号機は完成した。  この飛行機は、ただ空を飛ぶだけならば、安定性、操縦性は悪くなかった。だが、戦闘機としては、問題の多い機体だった。岐阜県|各《かが》|務《みが》|原《はら》飛行場で行われた社内飛行試験の最後の項目だった急降下飛行中、高度二千メートルぐらいのところで、とつじょ垂直尾翼の上半部が折れた。パイロットは冷静に破壊個所を確認し、エンジンのスイッチを切ったのち、落下傘で脱出した。無人の機体は、ひとりでに急降下から立ちなおり、操縦されてでもいるように滑空しながら、右に左に旋回し、丘の向こうへ消えてしまった。飛行機は一キロほど離れた|木《き》|曽《そ》|川《がわ》の川原で大破していた。着陸するような姿勢で降着したとき、石に脚をとられて転覆したらしかった。  また、ひきつづいて海軍に納めた二号機も横須賀航空隊でスタントの実験中、とつぜん回復不可能なきりもみ[#「きりもみ」に傍点]に陥って、墜落し大破してしまった。  競争相手の中島飛行機は、高い位置にある単葉を支柱で支える手なれたパラソル型という型式のものを提出した。しかし、これも海軍のおめがねにかなわず失格であった。五種の七試試作のうち合格したのは、いままでの複葉羽布張りを洗練した水上偵察機一機種だけだった。  意気込みのわりには、あまりパッとした成果もあげず、私たちの七試艦戦はあえない|最《さい》|期《ご》をとげてしまった。だが、私がその設計とテストで得たものは多かった。また、困難を避けて通らなかったことは、のちのことを考えると正しい決断だった。それは、会社の上司のおおらかな態度や、おつきあい願った海軍の人びとの支援のたまものだったと思う。七試の設計をやってみて、私は日本でだれよりも早く、これからの単発機のあるべき姿をつかむことができた。また部下の能力を発揮させるコツを得たというか、人間的成長といえるものがあったような気もする。     九試単戦で試みたこと  この収穫を、じっさいにためす機会はすぐにきた。  昭和九年二月、海軍は「九試」として、また新しく艦上戦闘機と、ほかに三機種を発注したのである。艦上戦闘機は、また三菱と中島の競争試作となった。この九試では、航空本部は艦政本部と相談して、母艦が艦上機に加えている制限を大幅にゆるめた。艦上戦闘機の条件のひとつに、飛行機が母艦に着艦する要求があるが、こんどの場合は、この要求すら引っこめ、ふつうの単座戦闘機として発注し、そのうえ航続力の要求もゆるめていた。  私は、ふたたび九試単座戦闘機、略して九試単戦の設計主任を命じられた。  こんどは、私の気持ちは七試のときとずいぶんちがっていた。まがりなりにも、七試という新しい戦闘機のはじめから終わりまでを体験し、設計チームのメンバーにも息がかよいあうようになっていた。それに、こんどの要求は、このようにかなり大ざっぱなものであり、われわれの自由な創造意欲をかきたててくれるものがあった。  私は、さっそくチームのおもだったメンバーを集めて、当時の世界の航空界の情勢や、日本のおかれた立場などを話しあい、私の抱いていた具体的な構想やアイデアを述べた。活発に意見を交換する技師たちもみな楽しそうであり、笑い声が絶えなかった。  このころの世界の戦闘機は、艦上機はいぜん羽布張り複葉機のひとり舞台だった。だが、陸上戦闘機のなかには、フランスのデボアチーヌ社の全金属製片持ち式低翼単葉型の戦闘機など、新味のあるものもぞくぞくと登場していた。こういう情勢を|目《ま》のあたりにしていた私は、九試の設計では、かなり細部の構想まではじめからまとまっていた。片持ち式低翼単葉型、脚が引っこまない固定脚という基本的な型式は七試と同じだった。しかし、その他の点では七試とはまったくちがっていた。機体はこんどこそ翼も含めて全金属製とし、世界ではじめて機体全表面に|沈頭鋲《ちんとうびょう》という新式の鋲を使うことをはじめ、思いきった進歩的な方針がたくさん含まれていた。  沈頭鋲とは、文字どおり頭が外に出ない鋲のことである。それ以前の鋲は、鋲の頭が機体の表面に出っぱっているために、空気の抵抗が大きかった。ところが、沈頭鋲を使えば、機体の表面の抵抗が大幅に減り、速度が増やせるのだ。  翼を金属張りにすれば、断面形を薄くすることができ、表面も正しい形にできる。これによってもさらに抵抗は減るはずだ。  胴体はできるかぎり細くする。エンジンは、あとで述べるように、七試とちがって、着陸時にシリンダーのあいだから前下方が見える単列星型という型式のものを採用した。だから、七試のように、パイロット席と機銃を高くするために胴体を盛り上げる必要はない。機体はいっそうスマートになるだろう。  つぎにエンジンだが、エンジンの選定は、飛行機の死命を制するほどたいせつだ。七試で使った三菱製のエンジンは、馬力のわりに目方が重く、油が噴出するなど具合の悪い点が多かった。いっぽう、中島の七試艦戦に使われた六百馬力の|寿《ことぶき》五型エンジンは、馬力、重量、大きさなどの点から見ると、七試よりかなり軽くなる九試に、もっともよくマッチしていると思われた。  中島製エンジンを使用するということは、三菱のエンジン部門の人にたいへんすまない気もした。だが三菱全体の立場とすれば、海軍機の機体を獲得するチャンスはのがしたくないのだ。私は中島製の寿五型を使うことに踏みきった。会社首脳部も海軍も、これをこころよく承知してくれた。これを聞いた、チームのメンバーのひとりが、 「そうなると、中島も七試にひきつづいて、九試でもこのエンジンを使うことになるでしょうから、いよいよ機体設計の優劣がはっきりしてきますね。これは負けちゃあいられませんよ」  といってきた。私は、まったくそのとおりだとうなずきながら、いっそうの責任と興奮を覚えた。  エンジンに関連してもっとも重要なのは、機体重量をどこまで減らせるかという課題だった。後進国日本の宿命として、欧米列強にくらべて、とくに、エンジン部門は馬力の競争という点でかなり立ち遅れていた。つきつめれば、この馬力の劣勢を、どこまで機体設計でカバーできるかが日本の飛行機設計者にとっての課題なのだ。また、このころ、アメリカを先頭に、エンジンを一つしかつけない小型の飛行機にも引込め脚の採用が広まり、戦闘機にもその流行がおよびかけていた。しかし、引込め脚は引き込みに要する機構がふえるため、重量がかさみ、製作の手間も費用もよけいにかかる。海軍が戦闘機に対して、第一に要求しているのは小まわりのきくことだった。それにはまず軽くなければならない。そのためにこそ、いま述べたように軽いエンジンを選んだのだから、重量がふえるのは、なんとしてもこまる。こう考えて、私は流線形に覆った細い固定脚にしようと決心した。沈頭鋲を使ったことで、引込め脚にしたのと同じぐらい抵抗が少なくなるはずだ。引込め脚を採用しなかったのは、馬力の小さいエンジンのマイナス面を補う点で、たんなるあきらめというより、積極的な意図にもとづくものであった。  毎日、仕事は急ピッチに進んだ。斬新な形と性能をもつことになるだろう戦闘機にしては、すべてがかなりスムーズに進展した。私も毎日ひどく忙しく、帰宅時間は遅くなったが、苦痛はまったくなかった。     零戦の前身、九六艦戦の誕生  こうして、零戦の直接の前身である九試単戦は、昭和十年一月に完成した。最大の難問だった機体重量も、苦労のかいあって予定以下にできあがった。あらためてながめてみると、沈頭鋲の鋲打ち作業になれないため、表面に細かいくぼみができて、まるで柔道着の|刺《さし》|子《こ》のような感じだった。それが、ピカピカ光るジュラルミン板と対照して異様に目立った。そのくぼみはパテで埋められ、その上に海軍から指定された灰緑色の塗料が厚目に塗られ、|磨《みが》きがかけられた。  競争相手は、低翼単葉ではあったが、翼の上下に張り線をはりめぐらし、しかも羽布張りという、アメリカで三年もまえにはやった旧式な型式を採用していた。このため、われわれの九試が予定以内の重量におさまったことがわかったとき、競争相手との勝負は事実上決まったようなものだった。相手機は私たちより早く飛行試験を開始し、その最高速度は時速四百キロを軽く突破したと伝えられた。私たちも、各務原飛行場で飛行試験を開始し、まもなく最高速度が時速四百四十キロは出るうえに、安定性や操縦性もよいことがわかった。  さらに、海軍による正式の飛行試験の結果、正規重量のときの最高速は高度三千二百メートルで時速四百五十キロと公認された。当時の日本の戦闘機の最高速度は、海軍の九〇艦戦が時速二百九十キロ、陸軍の九二戦が三百二十キロ、これにかわるべき海軍の九五艦戦が三百五十キロ、試験中の陸軍のキ‐一〇(のちの九五戦)が三百八十キロだった。このように、戦闘機の最高速度の伸びかたは、一年に約二十キロ程度だった。しかも、九五艦戦は八百二十馬力、キ‐一〇は九百五十馬力だったから、たった六百馬力の九試単戦が、それをいっきょに百キロも躍進させ、世界の戦闘機界にもまだ例のない高速を出したことは、いままで先進国のあとについていくのがあたりまえのように思われていた日本の航空界に、センセーションを起こしたのも当然だった。  この間とくに印象深いのは、航空廠の|小林《こばやし》|淑《よし》|人《と》少佐が各務原飛行場に臨時に設けたテストコースの地上約三十メートルを全速飛行するという危険な速度試験を何回もくりかえしてくれたことである。小林少佐は当時の航空廠にあって、海軍戦闘機の育成にもっとも貢献された人であった。  最初、航空廠では、会社側が提出した性能計算書の最大時速約四百十キロという数字を見て、 「これはあまりあますぎる。せいぜい四百キロぐらいのところだ」  と判定した。ところがちょっと飛んでみると四百三十キロを軽くこすというので、航空廠当局はうれしいがちょっと困ったような立場になった。名古屋地区担当の海軍主席監督官は、航空廠と会社のあいだに立って笑いながら、航空廠側に対して、 「指導だとか審査だとか偉そうなことは、今後いっさい言ってもらうまい」  などと、一本取って得意そうだった。  つぎに実験を要するのは、はたしてこの九試単戦が、日本海軍のパイロットの求めている|格《かく》|闘《とう》|戦《せん》に強い戦闘機かどうかということだった。九試単戦は、たしかにずばぬけた高速と上昇力をもっていた。しかし、戦闘機には、そのほか、旋回性能のよさ、つまり小まわりがきくこと、操縦応答性のよさ、つまり機体がパイロットの意のままに動くこと、機銃を命中させるために、機体のすわりがよいことなどが要求される。とくに旋回性能では、単葉機は複葉機にかなわないと考えられていた。世界の戦闘機設計者が複葉を捨てきれないでいたのは、このためであった。  当時、このような実用性実験は、海軍では横須賀航空隊が受けもっていた。戦闘機を担当するのは、その中の戦闘機隊であるが、昭和九、十年ごろは、|源田実《げんだみのる》大尉のもとに一騎当千のパイロットが集まっていて、「源田サーカス」というニックネームがつけられていた。わが九試単戦が生かされるのも殺されるのも、ひとえにこのサーカスの団長、団員の鑑識眼にかかっていた。彼らの任務は、戦闘機をテストして優劣を判定し、欠点をなおし、使いこなすことだった。だが、たんにそれだけにとどまらず、日本の国防のために将来の海軍戦闘機をどうもっていくべきかにまで、心をくだいていた。  そういうなかで、昭和十年秋、模擬空戦が行われた。相手はまえにも述べた海軍の最新鋭機で複葉の九五艦戦、イギリスのホーカー・ニムロッド艦戦、フランスのデボアチーヌD510で、べつにあとからドイツのハインケルHe112、アメリカのセバスキー2PAも加わった。青空に銀翼をきらめかせて飛びかう模擬空戦を、下から仰ぐのはじつにスリルにとんでいた。われわれの九試単戦は、九五艦戦以外の戦闘機にはかんたんに勝つことができた。その九五艦戦に対しても、上昇と急降下をまじえた戦法をとれば、九試が勝つことがわかった。この戦法は、高速と急上昇力をかねそなえた戦闘機の空戦のしかたについての、一大発見だった。これで、九試単戦への唯一の懸念だった格闘戦に強いかどうかという問題は、霧のように消えさった。  こうして、速度で世界のトップをいきながら、格闘戦のチャンピオンでもあるという、世界の常識を破った戦闘機が生まれた。柔道でいえば、立ち技、寝技どっちでもこいという、日本独特の戦闘機の道がここにはじまったのだ。そして、この九試単戦は、「九六式一号艦上戦闘機」として制式に採用された。昭和十一年秋のことである。  この九六艦戦誕生をきっかけとして、日本の飛行機設計者のあいだに、自分の頭で考え、自分の足で歩くときがきたという自覚が広がった。九六艦戦は、まさに日本航空技術を自立させ、以後の単発機の型を決定づける|分《ぶん》|水《すい》|嶺《れい》であった。この流れをくむ九七式などの新型機をつぎつぎに加えた日本の陸海軍航空部隊は、先進国におくれずに近代式のよそおいをととのえたのである。     九六艦戦のはじめての戦果  わが九六艦戦の威力は、昭和十二年七月にはじまった日中戦争で実証されることになった。  私が最初にそれを知ったのは、その年九月十九日朝のことだった。当時七時半始業だった会社に遅れないよう、私の朝食はいつも新聞を読みながらであった。この朝も、あわただしく|味《み》|噌《そ》|汁《しる》をすすりながら新聞に目を落とすと、トップに見なれた九六艦戦の写真があり、南京上空で敵機三十余機を撃墜したことが大きな活字で報じられていた。  私は思わず、「ほう!」と、声をあげていた。家では、ふだん仕事のことはめったに口にしない私であったが、このときばかりは、かたわらにいた家人にも新聞をさし出した。その新聞をもって会社にいくと、すでに室内はこの話題でもちきりだった。  この日以後の九六艦戦の働きを追ってみると、まず、九月十八日、中国の首都南京を空襲する九六艦爆、九五水偵とともに上海郊外の飛行場から離陸した九六艦戦十二機は、南京上空において、わずか十五分間で敵戦闘機三十三機を撃墜した。これを手はじめに九六艦戦は、有名なアメリカ、イギリス、ソ連製の戦闘機を主力とする敵機をなぎ倒し、十二月二日、南京上空で、ソ連製のイ16戦闘機約十機を撃墜したのを最後として、中国機は、南京方面から姿を消した。  そして、この南京空襲と、それにつづいて行われた大陸奥地への戦闘機の進攻によって、海軍の戦闘機というものは、艦隊の上空|掩《えん》|護《ご》がおもだった任務であるといういままでの通念を、すっかり変えさせることになった。  また、いままでは、陸海を問わず、敵の航空戦力を撃滅するには、攻撃隊で敵の飛行基地を空襲し、敵機を基地で破壊するのがよいと思われていた。しかし、この日中戦争の航空戦で、敵の|搭乗《とうじょう》員を、飛行機もろとも撃墜するほうが、ずっと確実で有効なことがはっきりしたのである。日本海軍は、戦闘機をもって制空権をひろげることが航空戦の基本だという新しい兵術思想を、世界に先がけて導入することになった。この戦術は、のちの太平洋戦争で、零戦によって大規模に実施されることになった。しかし、ヨーロッパでは第二次大戦の末期まで、この戦術は行われなかった。言いかえれば、そういう戦闘機がなかったのである。  九六艦戦のこのような成功は、たしかに一つの驚異であった。しかし、航空機、とりわけ戦闘機の進歩の歩調ははやい。どんなにすぐれた戦闘機でも、平時で四年、戦時なら二年で旧式となり、通用しなくなってしまう。九六艦戦もまたしかりだ。きたるべき航空戦に、十分通用できる新しい戦闘機が出現しなければならない。十二試艦戦の構想はここから生まれ、それゆえに、気の遠くなるような高性能をもたなければならない宿命を負っていたのである。    第二章 不可能への挑戦     不可能を可能にするには  私が零戦、つまり十二試艦戦の計画要求書を受けとったころも、九六艦戦のこのような活躍が、三日にあげず新聞をにぎわしていた。たしかに、九六艦戦は、設計当時われわれに考えられるかぎりの技術を駆使した最高の戦闘機であった。私は九六艦戦で望みうるぎりぎりの線までの努力をした経験と、その後、戦闘機というものの性質をあれこれと考えてみたことがあるので、この十二試の要求の|苛《か》|酷《こく》さがよくわかるのだった。  いままで私たちは二つの新型の飛行機の設計をやりとげたが、どれも最初はみんな大へんな難事業のようにも見えた。しかし私は、日本に飛行機がはいってから二十いく年、先進国の後から数年おくれてついて行くのが常識のように考えられてきた日本の設計者の考え方を、ひとり立ちするよう先導役をつとめることができたのだから、今度は、この十二試のような世界のレベルを抜く新戦闘機を作ることも、頭をはたらかせれば、不可能なことではないだろう。私はそう思って自分で自分をはげました。  このころのことで思い出されるのは、この計画要求書が交付されてまもない大事な時期に、|風邪《か ぜ》をこじらせてしばらく会社を休まねばならないはめにおちいったことである。さいわい、たいしたことにはならず健康を回復したが、以後は健康のたいせつさをしみじみと考え、また、体だけはくれぐれも気をつけて仕事と取り組むよう、上司からあたたかくもきついお言葉をいただいた。  そんなことがあってまもなく、いよいよ十二試艦戦の本格的な設計作業がはじまった。当時は、日中戦争の戦訓にもとづく九六艦戦の改修という仕事も多く、これから生み出そうとしている十二試艦戦のほかに、九六艦戦という世話のやけるやんちゃ坊主のおもりもしなくてはいけないという、まさにてんてこ舞いの忙しさだった。そんななかで、頑健でない私を中心に、チーム全員が堅いスクラムを組んで協力してくれたことは、いまでも感謝にたえない。  さて、この十二試艦戦という難事業をまえにして、まず私が思ったことは、とにかくこれまでの常識によりかかっていたのでは、どうしようもないだろうということだった。ふつうの設計者の考えそうもないことだが、設計のしきたりや規格を、神格化して|鵜《う》のみにするようなことをやめて、その根拠を考え、新しい光を当ててみたらどうだろうか。九六艦戦のときには、がらりと機体の形を変えるような手が残されていた。こんどは、人の踏みこまない奥のほうに、一歩踏みこむ余地はないだろうか。  私は、まず飛行機のおおまかな重量の見積りと、エンジンの選択にとりかかった。実用機の中で、戦闘機ほど、エンジンによってその性能を左右される機種はない。エンジンがきまれば、機体の大ざっぱな図が描けるとさえ断言できる。十二試艦戦のばあい、エンジンの候補にはまえにも述べたように三菱の「|瑞《ずい》|星《せい》一三型」と「金星四六型」とがあげられていたが、馬力の大きさでは金星のほうがまさっている。だから、金星を使えば|一《いっ》|足《そく》とびに高速で高性能の戦闘機を作ることができる。この観点だけから見れば、金星を選ぶべきかもしれなかった。また、私はそのころから、小きざみに何種類もの飛行機を作ることは結果的によくないという持論をもっていたので、金星を使っていっきに性能のよい戦闘機を作るほうが、私のこの持論にも合っていた。  しかし、金星を選択するのには致命的な一つの障害があった。それは機体がいっぺんに大きくなってしまうということである。というのは、金星は瑞星にくらべて大馬力を出せるかわりに、エンジン自体のサイズも大きく、目方も重く、多くの燃料を食う。そのため機体も重くなるし、燃料の重さもよけいにふえる。それだけの重量をささえるには、主翼も大きくしなければならないし、それにつりあうように、胴体も尾翼も大きなものにしなければならない。また脚も大きくがんじょうにしなければならない。このように、機体全体が雪だるま式に大きくなってしまう。概算すれば、飛行機の重量は三千キロ程度になりそうだった。陸上戦闘機ならこれでもよいが、艦上戦闘機としては、一千六百キロ程度の小柄の機体で小まわりのきく九六艦戦になれていた当時のパイロットに受け入れてもらうまでに、かなり時間がかかってしまう。そしてそれは、同じ十二試艦戦の競争試作を申し渡された競争相手に負けてしまうことを意味していた。  これに対し、瑞星を使えば、飛行機の重量は二千三百キロ程度となり、格闘性能に見合うような主翼面積を与えても、主翼のはしからはしまで十二メートル近くのものでおさまりそうである。このあたりが、パイロットに受け入れてもらえるぎりぎりの線だと私は思った。将来性よりも、まず競争に勝たねばならない。「よし、これでいこう」私は、以上のような観点から、瑞星エンジンを使うことに決心した。そのことを服部課長に報告すると、じっと耳を傾けていたままの姿勢で、「よかろう」ということであった。     スマートさと力強さと  これで、エンジンは決定した。つぎは、このエンジンをとりつけた機体の、おおまかなデッサンである。これから解決しなければならない問題は山ほどあったが、機体のおおまかな形については、このころ、私の頭の中には、すでにあるイメージが浮かんでいた。それは、九六艦戦の外形を、さらに洗練し、スマートさと、ぴんと張りつめた感覚を持たせたようなスタイルだった。私は、ためらうことなく、目のまえの紙に、おおざっぱな三面図を描いてみた。  まず、横から見た側面図。大きさと形がきまっているエンジン覆いから描きはじめ、胴体を流線形に描く。垂直尾翼の大きさや、パイロットが乗りこむ操縦席のスペースは、いままでの経験から、ほぼこのくらいでよかろう。エンジンと操縦席のあいだには、燃料タンクが収まる。これも経験から、重心の位置に見当をつけ、主翼の位置を描きこむ。脚の高さはプロペラの直径も考慮しておおざっぱにきめ、最後に、操縦席を覆う|風《ふう》|防《ぼう》を、前方、後方の視界や空気抵抗を少なくすることを考慮しながら、美しさを出すように苦心して描いた。  つぎに、上から見た平面図である。胴体の形は、側面図にあわせて描けばよい。問題は主翼の形だが、これについては、私は九六艦戦から一歩進歩したものを、すでに考えていた。当時、単葉機の主翼の平面形を、楕円に近い形にするのが流行していて、九六艦戦にもそれをとりいれていたのだが、こんどの十二試艦戦では、思いきって、ぴんと伸ばしたような直線テーパー(先細型)にしようと思っていた。こうして主翼を描き、それにつりあうような形の水平尾翼を描くと、いよいよ十二試艦戦のイメージがはっきりしてきた。  ついで、主翼に収めるものを、だいたいの見当で描きこむ。まず、脚は、こんどこそ引込め脚を実行しようと考えていたので、そのスペースを点線であらわしてみた。そして、その外側に、当時としては驚異的な威力を誇る二十ミリ機銃をつける。主翼内の燃料タンクの大きさと位置もだいたいの見当をつけた。  最後に、前方から見た正面図を描いて、私の仕事の第一歩は終わった。それは、世界最新で最強の戦闘機にふさわしい、|敏捷《びんしょう》さとたくましさをかねそなえているように、私には思えた。  その後、さらに綿密な計算によって、精密な三面図が完成するが、形と寸法を正確に決めるのに、もっとも手数がかかるのは主翼だった。主翼内におさめる引込め脚と二十ミリ機銃の翼内装備をくわしく図に描いて決めたのちに、はじめて、主翼の平面形と厚さなどが決まる。  私は、設計のおもなメンバーである|加《か》|藤《とう》技師、|曽《そ》|根《ね》技師、|畠中《はたけなか》技師を呼んだ。加藤技師は海軍機の脚設計の責任者であり、曽根技師は九六艦戦の設計で強度計算を担当して飛行機の構造設計をマスターし、畠中技師は機銃装備など|兵《へい》|装《そう》|艤《ぎ》|装《そう》のベテランで、ともに、私の右腕とたのむ優秀な設計技師だった。気脈の通じあった彼らには、多くの言葉を要しなかった。 「まず、こんなところで進めてみたいのだが」  と、私はこの三面図を三人に示し、加藤技師には、脚取り付けおよび引込め装置、畠中技師には二十ミリ機銃を装備するためのくわしい設計、曽根技師には、両者がおさまる主翼の寸度と構造の案をたのんだ。三人はまた、それぞれ自分の机のところへ散り、作業がはじまった。そして、何日かのちに、この三人と私の協力で、主翼の形と厚さなどが決められた。  これらと平行して、操縦席まわりとエンジンをほどよく包むきれいな胴体線図と、全体にマッチする尾翼の面積と形を図に表わしてきめた。また重量、重心の見積りをやり直して精密さを高めた。  こうして、十二試艦戦、のちの零戦の外形が生まれた。仕事場の窓の外には、いつのまにか冬がしのび寄っていた。ついこのあいだまで、青々としていると思った草原が、十二試艦戦の構想を追い求めているうちに黄色く変色しているのを見ながら、私は、会社の食堂で熱いきしめんに舌つづみをうった。     始まった産みの苦しみ  設計主任である私と、設計チームのおもなメンバーの協力によって十二試艦戦の外形はきまったが、じつは、これから、もっとも苦しい時期にさしかかるのである。このような外形をもった機体に、海軍が要求するようなさまざまな性能を盛りこむための、文字どおり血のにじみ出る努力が、私たちを待ちかまえていた。  海軍側の要求にそえる方法を、具体的に考えれば考えるほど、その要求の苛酷さが身にしみてわかった。私は毎日、会社の机で|呻《しん》|吟《ぎん》した。昼休みにスチームのきいた部屋にみなで集まって歓談しているときも、若い技師たちは、よく、海軍のだれそれさんはこんなくせがあるなどと話して笑ったりしていたが、私の頭には、ときどきふっと、要求書の項目が現われては消えていった。 「この要求のうちのどれか一つでも引き下げてくれれば、ずっと楽になるのだが——」  そういう思いがときどき頭をよぎった。  そんななかで、昭和十三年が明け、街角からようやく正月気分が抜けはじめた一月十七日、十二試艦戦の計画要求書に関する、官民合同の研究会が開かれた。場所は、例によって、横須賀の航空|廠《しょう》会議室だった。私たちは服部設計課長以下合計四名、早朝の身を切るような寒気に|外《がい》|套《とう》の|襟《えり》を立てながら航空廠に出頭した。道みち、みな思い思いにきょうの会議のことを考え、吐く息ばかりが白かった。  海軍側からは、航空本部技術部長の|和田操《わだみさお》少将、航空廠長の|花《はな》|島《じま》|孝《こう》|一《いち》中将をはじめとする約二十名。そのなかには、つい数日まえまで、中国の戦線にいた|源田実《げんだみのる》少佐が、硝煙の匂いも消えやらぬ雰囲気をもって列席していた。民間側は、私たち三菱の四名のほか、中島の関係者五名が参加していた。  席上、和田技術部長と花島廠長が、中国大陸における戦闘の前途、国際情勢の緊迫化を説き、十二試艦戦の重要性を強調した。ついで、源田少佐が立った。第二連合航空隊の航空参謀としての経験から、九六艦戦、九五艦戦のなまなましい空戦を説明した。そして、新試作戦闘機に対し、とくに格闘性能と航続力の重要性を強調した。  それにひきつづいて、あらためて計画要求書の討議が行われた。私たち民間側の出席者は黙しがちだった。討議の内容はほとんど、この要求のよって出たところを裏づけるようなものばかりであり、とても要求のうちの一つでも引き下げられるような雰囲気ではなかった。  しかし、そのうち司会者が、 「ところで、設計側ではどのようにお考えですか」  と、意見を求めてきた。  そこで、私は意を決して立ち上がり、受けいれられないとは思ったが、 「世界を見渡しても、このたびの戦闘機に対する目標は、あまりにも高すぎるように思います。要求されている性能のうち、どれか一つか二つを引き下げていただけないでしょうか」  と、質問した。  一瞬、会場には緊張した空気が流れた。服部課長はじめ民間側の代表者たちは、言葉には出さなかったが、無言でうなずいていた。私たちの真正面にいた海軍側の代表者たちは、この突然の質問に対して、たがいに隣どうしでひそひそとささやきあっていた。そして、相談ののち出された回答は、予期したとおり、「引き下げられない」というものだった。  私は、やはりそうかと思い、それ以上発言しなかった。そして、なお引きつづいた討議を聞きながら、この困難な要求に決意を新たにして立ち向かわねばならないことをひしひしと感じていた。  後日、源田少佐は、その会議の感想をつぎのように述べている。 「いかに優秀な技術者であろうと、両立しがたい多くの特性を、もっとも高いレベルにそろえろという、無理な要求では、さぞかし苦しんだことだろうと思う」  まさにその言葉どおり、零戦を産み出すための、陣痛にも等しい闘いが、いよいよはじまったのであった。     設計チームの編成  名古屋の会社に帰るとすぐ、服部課長のもとに、主任である私と、おもだった設計技師が集まって、今後の仕事の進め方を相談した。航空廠での会議で、海軍側からはっきり答弁があって、苛酷な要求のどれ一つとして引き下げられないことが判明しただけに、どの技師の顔にも、深刻なかげが深くきざまれていた。  当面、われわれがしなければならないことは、二つあった。一つは、構想から設計に移すための具体的な設計方針の決定であり、もう一つは設計チームの編成である。  設計チームは、計算班、構造班、動力艤装班、兵装艤装班、降着装置班の五つにわけ、あとから加わった人も入れると、それぞれの班に三人から九人のメンバーが配され、つぎのような編成になった。  課   長 =服部譲次  主任設計技師=堀越二郎  計 算 班 =|曽《そ》|根《ね》|嘉《よし》|年《とし》(班長)、|東条輝雄《とうじょうてるお》、|中村武《なかむらたけし》、のち、昭和十五年からは東条、中村に代わって|小林《こばやし》|貞《さだ》|夫《お》、|河《かわ》|辺《べ》|正《まさ》|雄《お》  構 造 班 =曽根嘉年(班長)、|吉《よし》|川《かわ》|義《よし》|雄《お》、|土《ど》|井《い》|定《さだ》|雄《お》、|楢《なら》|原《はら》|敏《とし》|彦《ひこ》、|溝《みぞ》|口《ぐち》|誠《せい》|一《いち》、|鈴《すず》|村《むら》|茂《しげ》|雄《お》、|富田章吉《とみたしょうきち》、|川村錠次《かわむらじょうじ》、|友《とも》|山《やま》|政《まさ》|雄《お》  動力艤装班 =|井《いの》|上《うえ》|伝《でん》|一《いち》|郎《ろう》(班長)、|田中正太郎《たなかしょうたろう》(責任者)、|藤《ふじ》|原《わら》|喜《き》|一《いち》|郎《ろう》、|産《うぶ》|田《た》|健《けん》|一《いち》|郎《ろう》、|安《やす》|江《え》|和《かず》|也《や》、|山《やま》|田《だ》|忠《ただ》|見《み》  兵装艤装班 =|畠中福泉《はたけなかよしみ》(班長)、|大《おお》|橋《はし》|与《よ》|一《いち》、|甲《こう》|田《だ》|英《ひで》|雄《お》、|竹《たけ》|田《だ》|直《なお》|一《いち》、|江《え》|口《ぐち》|三《みつ》|善《よし》、|柴山鉦三《しばやましょうぞう》、|森《もり》|川《かわ》|正《まさ》|彦《ひこ》  降着装置班 =|加《か》|藤《とう》|定《さだ》|彦《ひこ》(班長)、|森《もり》|武《たけ》|芳《よし》、|中《なか》|尾《お》|圭《けい》|次《じ》|郎《ろう》  このほかにも、短期間手つだってくれた人も多い。また、各班のおもだった人は、九六艦戦以来私のチームに加わっていた人で、いずれも気心のよく知れた者ばかりだった。そのことが、このむずかしい仕事をやりとげるうえで、どれほどプラスになったかわからない。  また私たちを率いる服部設計課長は、若い部下の成長を願い、新規の設計では、各機の担当者が、自主的に発案、構想するように指導してくれた。三菱航空が、のびのびとした空気の中で、日本の航空自立期に際し、先頭に立ってつぎつぎに新しい飛行機を生み出してゆけたのも、この人に負うところが大きいのである。     設計方針を確立  もう一つは、設計方針の確立である。設計の作業は、まず主任一人の頭のなかで構想がはじまり、過去のデータを基礎に、計算尺を使って、重量のおおざっぱな見積りから、その重量に見合った翼の面積を仮定し、性能の見通しをつける。こうしたうえで、|粗《あら》い三面図をえがく。つぎに、各班の班長数人に、構想とおおざっぱな目標数字や三面図を説明する。ここまでは一月十七日の会議の前に進んでいた。つぎに、各班は、密接な連絡をとりながら、受けもち各主要部分を図面化しつつ掘りさげる。そのさいに必要なのが、明確で具体的な設計方針なのである。  主任は、その後も構想を練りあげながら、目標の重量、性能、各部寸度の精度を高め、新しく浮かぶアイデアや外部情報による修正、追加を行う。そして、それらの修正や追加を各班長にすみやかに伝える。そのいっぽうでは、各班長からの報告や提案を受けて、それを検討し、必要があれば関係各班長を集めて協議しながら決定していくのである。  この設計方針について、私はこの二ヵ月間、あれこれと考えつづけていた。この段階での作業は、局部については、ときに班長に聞くこともあるが、根本的にはほかの人に相談したり頼ったりしてできるすじあいのものではなく、いわばひじょうに孤独な仕事であった。  会社にいるときは、ややもすると目先の仕事だけに追われてしまうことが多かった。だから、私のこの頭の中での作業は、通勤の満員電車の中でも、家に帰ってからも、続くことがあった。夜中に目がさめてしまい、暗闇を見つめながら考えたこともあったし、夜おそく床にはいっても、なかなか寝つけないこともあった。寝がけに酒を飲むとすぐ眠れると教えてくれた人もいたが、私は生来の|下《げ》|戸《こ》であった。  昭和十二年もおしつまるころから、私の頭の中には、設計の問題点のおもなものが、つぎの四つに整理されていた。  第一に、エンジンの決定。つぎに、プロペラの選択。第三に、重量軽減対策。第四に、空力設計、つまり、機体の空気抵抗を少なくし、同時に理想的な安定性、操縦性を実現することだった。  まず、エンジンの決定だが、これは、すでに瑞星を使うことを決心していたし、とくに、一月に開かれた計画要求研究会の空気で、まったく動かないものとなった。  つぎは、プロペラの問題である。プロペラは、海軍の指定により、定回転プロペラという新式のプロペラを使うことになっていた。従来の戦闘機に使っていたプロペラは、固定ピッチ式といい、プロペラのピッチ、つまり羽根の|捩《ねじ》れぐあいがきまっていて、最高速で飛ぶときのみにフル回転し、全馬力が出せるように作られていた。そのため、最高速で飛ぶとき以外、たとえば、離陸のときや上昇飛行などのように、プロペラにより大きい負担がかかるときは、エンジンの回転がさがってしまい、全馬力を出すことができない。これはちょうど、トップ・ギアしかない自動車で、発進しようとしたり|昇《のぼ》り坂を上がろうとすると、エンジンの回転が落ちてしまい、全馬力が出せなくなるのと同じである。  これに対し、定回転プロペラは、飛行機の速度の変化にしたがって、低速ではプロペラの捩りが浅く、高速では捩りが深くなるように、ピッチが自動的に変わり、エンジンとプロペラの回転を、いつも、全馬力が出るようなフル回転にしておくことができるのである。戦闘機は、空戦中、上昇から急降下まで、速度が千変万化し、とくに高速の戦闘機ほど、その速度の範囲が広いから、定回転プロペラの長所がよく発揮される。海軍がこの十二試艦戦に、まっさきにその使用を指定し、メーカーにアメリカからの技術導入をさせようとしたのは、とうぜんであった。  しかし、エンジンやプロペラの選択はともかくとして、その開発や改良は、ほとんど他人まかせであり、われわれ機体設計陣がいろいろと思い悩んでみても仕方のないことだった。     最大の難問、重量軽減対策  さて、これらの方針のうち、私たちがもっとも苦心したのは、重量を軽くすることであった。なまじっかなことでは、飛躍的な重量軽減など、できるものではない。全員が積極的に注意と努力を払わなければならなかった。  重量軽減については一つの基本的な考え方ともいうべきものがあった。これは、今回の設計のエンジン選択のときにも考えたことだが、今の英語でグロース・ファクター、日本語で重量成長係数といわれる考え方だった。  もし飛行機でいま不用意に一キロの重量増加があったとすると、その増加した重量を支えるために、いろいろな部材の強度をふやさねばならず、そのためにまた重量がふえる。そのときの重量増加は、戦闘機ではおよそ一キロぐらいであった。つまり、単純に計算しても、一キロの重量増加は、結果的に二キロの重量増加とならざるをえないのだ。そうなると、さらに、飛ぶとき翼にかかる重さもふえるから、とうぜん翼の面積もふやさねばならず、そのためまた何百グラムかの重量増加が生じる。そうなると、エンジンを大馬力のものにかえないかぎり性能はさがるが、それを考えないでも、一キロの増加が最終的には二・五キロぐらいの増加となり、翼が大きくなったことからくる空気抵抗の増加、材料や工数の増加、価格の増加と、どんどん不利な条件が重なってくることになるのだ。  このため、もっとも警戒しなければならないのは、ルーズな重量管理であることを、私はつねに自分に言いきかせ、また設計チームの各員にも徹底させてきた。今回もまた、以前にまさる厳しさで、この態度を貫かねばならないだろう。  そして、そのうえに、いままでだれもやったことのない新しいアイデアも必要だった。私がこの十二試艦戦の構想の初期のころ、だれも踏みこんだことのない奥のほうに一歩踏みこみ、従来のしきたりや規格を神格化しないで新しい光を当ててみようと思ったそのことを、ここでこそ実行しなければならないと感じた。  当時、飛行機を設計する場合に守らなければならない基準を記した「飛行機計画要領書」というものが新しく定められていた。  その中の、飛行機の強度を規定する部分に、「安全率」という規定があった。それは、機種ごとに、その飛行機が飛行中に何回うけてもよい「最大の力」をきめ、その最大の力がかかったとき、飛行機の強度があまりぎりぎりで余裕がないと危ないため、飛行機が破壊するまでにまだどれぐらいの余裕をもたせるべきか、その率を安全率と定義したものであった。その飛行機計画要領書によれば、この安全率は、機種、力のかかり方、部材の性質などによらず一・八、つまり、何回うけてもよい最大の力の一・八倍以下では破壊してはならないと定められていた。  戦闘機に対しては、このうち何回かかってもよい最大の力というのを、七Gつまり地球の引力の七倍の力ときめてあったから、一・八という安全率をこれに適用すると、機体のすべての部材は、七Gの一・八倍、つまり十二・六Gという力に耐えられなければならないことになる。言いかえれば、最大の力である七Gという力のかかる激しい運動をしたときでも、すべての部材の強さは、それに加えて、五・六Gの余裕をもつことが要求されていたのである。  しかし、私は、部材の強度試験に立ち会った経験から、いろいろな部材によって、そのこわれ方がちがうことをよく知っていた。  細長い柱や薄い板のような部材を両端から押すと、押す力がふえるにつれて、部材ははっきり|湾曲《わんきょく》がふえてゆく。そして、はじめのうちはその力を抜くと、湾曲は消えて、もとの形にもどる。そして、さらにすこし押す力を加えると、あるところでその力に耐えられなくなって破壊する。ここで重要なことは、この種の部材では、極端にいうと、それが破壊する寸前まで、加えていた力を抜くと湾曲がもとにもどるということである。ということは、もとの形にもどる範囲の最大限の力、つまり何回くりかえしてかけてもよい「最大の力」は、破壊する力のごく近くまで近寄っているということになる。  これに対し、引っ張り力に耐えるよう作られた引っ張り部材や、押す力に耐えるように作られた|太短《ふとみじか》い柱や厚い壁のような部材は、かかった力がその部材を破壊するだいぶまえで、すでにその部材の変形はもとにもどらなくなり、役に立たなくなってしまうのだ。ということは、この場合、何回もくりかえしてかけていい「最大の力」は、その部材を破壊する力よりずっと手前でとどまってしまうということになる。  私は、この二つの破壊のされ方に重量軽減のヒントがあると考えた。もし、この二種類の部材で、ともに十の力をかけたとき破壊される部材を作ったとしよう。すると、細長い部材のほうは、十にごく近い八か九の力までくりかえしかけてよいことになる。しかし、これに対し、引っ張り部材や太短い部材は、十からだいぶ遠い六か七の力しかかけられない。ということは、もし、六か七程度の力しかかからない飛行機にこの二種類の部材を使ったとすれば、細長い部材のほうは余裕がありすぎることになる。 「これだ! この余裕のありすぎる部材の安全率はもっと下げることができる」  私はこう決心した。  たしかに、このような動かしがたい事実に照らして考えれば、引っ張り部材や太短い部材に対して一・八の安全率が必要だからといって、細長い部材に対してまで一律に一・八の安全率を要求するのは理屈に合わない。まして、飛行機にはこのような細長い部材が多いのだから、この不合理な千編一律的な一・八という安全率を、合理的に改めることが、重量軽減に大いに役立つはずである。そして、このような細長い、あるいは薄くて丈の高い部材に対しては、安全率を一・六ぐらいに下げても差しつかえないという結論に到達したのだった。戦後この安全率はいっせいに一・五に引き下げられた。このことから見ても、私の見解は正しかったことが裏書きされた。  ただ、残念ながら、そのときは、世界中に通用している厳然たる規定に真正面から挑戦して、その論争に時間をかける余裕はなかった。そのため、この十二試の設計では、そういう部材には、計算上一・八をけっして上まわらないか、あるいは、すこし下まわる安全率を採用するという程度のおだやかな方針でつらぬくことにした。  これによって、機体全体で、合計どのくらいの重量軽減になるのかをくわしく計算することはできなかったが、一・八という安全率を|墨《ぼく》|守《しゅ》し、あるいは、一・八にさらに余裕を見こんだ安全率を、大したむだとも考えないことにくらべれば、そうとうな重量の節約ができるだろう。私は、この方針を得て、また前途に一つ明るい|曙《しょ》|光《こう》を見た感じがした。  もちろん、重量軽減のための努力は、このほかにありとあらゆる面にわたった。たとえば、これは、われわれがすでに九試単戦の試作中に考え出し、実施は中島の陸軍九七式戦闘機に先を越されたアイデアだが、それまで、主翼を中央翼と外翼の二つの部分に分けて作っていた設計を改め、主翼のつけ根から先端までを一枚に作ることにした。こうすることで、従来必要とされた中央翼と外翼をつなぐ大きくて重い金具が不要になった。      もっと軽い材料を!  重量の軽減には、このほか、どのような材料を使うかということもおおいに関係がある。従来のジュラルミンをさらに改良したものか、あるいは、別のもっとすぐれた軽い金属はないだろうか。こういう考えが私の頭にいつもあった。と、ある日、会社の材料購入を担当している木村技師が、私の机にぶらりとやってきて、つぎのような話をしていった。 「堀越さん、いま住友で、ひじょうに強い新しいアルミ合金ができかかっているらしいですよ」  話によれば、従来のジュラルミンの成分をすこし変えて、強度の高い材料を開発し、試験的に生産に入れられる段階だという。私はこの話におおいに興味をそそられた。  そこで、住友金属に問いあわせると、担当者が直接私に説明しながら、実物を見せたい、という返事がきた。さっそく、大阪の住友の工場にとんでいって説明をきき、実物を見せてもらっているうちに、私は、これは使えるぞ、と判断した。そして、この新材料を使用するにあたって、注意しなければならない点をよく聞いてきた。  私は、さしあたり、主翼の|桁《けた》だけに使うとして、大まかに重量を計算してみると、三十キロは軽くなることがわかった。そこで、会社からこの新しい金属の使用を航空本部に願い出た。すると、航空本部でもすでにこの金属に注目しており、許可する一歩手まえまで来ていたとのことだった。海軍側はむしろ願い出を喜んで、この新材料の使用を認めてくれた。  こうした比較的大幅な重量軽減のほかに、こまかい部分でも、重量は一グラムたりともないがしろにできなかった。たとえば、ある日、若い技師が、補助翼の操縦系統を支える翼内の金具の図面を持ってきた。しかし、私はこの図面に承認の印を押さなかった。欄外にこまごまと指示を書き記し、若い技師にやりなおしを命じた。その図面を見て、私は、鋼の溶接製をアルミ合金の板金製に変えれば、四割程度軽くできそうに思ったからだ。四割といっても、重量でいえば七十五グラム程度であり、機体全体からすれば、たった三万分の一にも相当しない微量なものであった。しかし、私たちは、「機材全重量の十万分の一までは徹底的に管理する」ということを設計の鉄則としていたからだ。  もちろん、このようなやりなおしは珍しいことではなかった。直接に重量軽減とは関係しないが、こんなエピソードもある。ある日、私は、構造班の若い未経験な技手から提出された設計図を見ていた。そのうち、胴体内部を通っている操縦系統のケーブルの滑車の支えを、胴体を覆っている薄い外板に、直接とりつけるように設計されている個所を発見した。ふつう、このような力のかかるものは、骨組みに直接とりつけるのが原則である。 「きみ、これじゃ、カーテンに帽子かけをとりつけたようなものだよ」  このような大小の図面の合計は、この十二試艦戦の場合、じっさいの機体を製作するためのものだけで、三千枚以上になった。私は、十ヵ月ぐらいにわたってできる図面全部に目を通してチェックし、こまかい指示を与え、必要があれば変更を指示しなければならなかった。     洗練に洗練を重ねた空力設計  重量軽減対策と並行して、私たちが苦心したのは、空力設計、つまり空気抵抗を減らし、安定性、操縦性をよくするための設計であった。飛行機の速度を増し、航続距離を伸ばすためにも、また空戦性能をよくするためにも、機体は空力的にとことんまで洗練しなければならない。まず、胴体は、二十ミリ機銃を撃ったときの反動でぐらつかないよういくぶん長めにし、パイロットの視界を良くするため胴体から突き出した型の風防をつけた。  つぎに、主翼の断面型であるが、これはすでに、初期の私の構想の中で、三菱一一八番型という翼型を使うことに決めていた。これは、九六艦戦で使った翼型にさらに改良を加えたもので、当時三菱が作った翼型のなかではもっとも優秀な特性をもつものであった。  つぎにもっとも問題となるのは、主翼の面積である。この十二試艦戦のように、大量の燃料、二十ミリ機銃、引込め脚などをはじめとして積載量が多く、しかもエンジンの馬力が小さい飛行機に、小さい面積の翼をつけること——航空用語でいえば、大きい馬力|荷重《かじゅう》に、大きい翼面荷重を組み合わせること——は、戦闘機設計上のタブーだといってよい。というのは、そういう戦闘機は、上昇が悪く、離着陸の距離が長くなり、それに小まわりがきかず、活発で軽快な運動ができなくなる。そうなれば、かんじんの空戦で劣勢になり、せまい中型母艦から飛び立つにも不適格となってしまうという理屈である。  そこで私は、これまでの経験や内外のデータをもとに、十分な翼面積を与え、翼の長さも要求書に記されたぎりぎりの十二メートルとすることにした。こうするとさきに述べた旋回性能や離着陸に関しては目的を達しうるが、重量はふえるし、抵抗が増して、水平速度、急降下速度、横の運動性などに対してはマイナスとならざるをえない。しかし、旋回性能や離着陸の要求のほうが強かったし、また、こうすることで、胴体を長くしたこととあいまって、二十ミリ機銃を発射したときの安定をよくすることもできるので、この方針を貫くことにした。速度は翼面積の減少に頼らず、空力的洗練で抵抗を減少し、それによって獲得することにした。  その他、脚の引込め、二十ミリ機銃、燃料タンクなど翼内の装備のことなども考慮に入れて主翼の形は決まった。ただ、これだけ必要な要件をすべて盛りこんだあとに、その外形をどのような線で形どるかは設計者の好みにまかされる。私は九六艦戦で楕円形に近いやわらかな線をもった主翼を作ったが、こんどは、すなおな直線型を基調とし、翼端は単純な円弧より感じのよい|放《ほう》|物《ぶつ》|線《せん》形にして、きりっとひきしまった感じを持たせた。  このほか、主翼に関して忘れられないのは、翼端の捩り下げということである。これは、じつは九六艦戦に、空戦性能を向上させる目的で、すでに取り入れていた方法で、私は、その効果が意外に大きいのに驚いていた。捩り下げとは、主翼の|迎《むか》え|角《かく》、つまり進行方向に向かって|仰《あお》|向《む》いている角度が、翼端に近づくにつれ小さくなるようにすることを言う。こうすると、主翼のつけ根と、翼端とでは迎え角がちがって捩れた形の翼になる。これがなぜ空戦性能の向上に役立つかというと、ふつうに翼全体を一様の迎え角にしておくと、この飛行機のような|先《さき》|細《ぼそ》|翼《よく》では、機全体が大きな迎え角で飛ぶとき、まず翼端のほうから翼が揚力を失って、いわゆる翼端失速という現象を起こす。このため意図しないのに片翼が下がり、横の安定性が悪くなってしまう。だから、あらかじめ翼端の迎え角を小さくしておけば、飛行機全体が大きい迎え角で飛ぶときも、翼端失速を防ぐことができる。この方法を、十二試艦戦にも取り入れたのだ。  この捩り下げは、主翼の外観をちょっと見たくらいではわからないくらい微妙なものである。だから、この方法を最初に取り入れて効果を上げた当時、もし三菱が捩り下げを黙っていれば、他社はその空戦性能の秘密にすぐには気づかなかっただろうなどと言われたものだった。  水平尾翼、垂直尾翼は、安定性、操縦性のためにあるものだから、多少、重量や抵抗上不利になっても、安定性、操縦性が満足になるように考えて決定した。安定性について言えば、水平尾翼を大きくすることによって、機首の|縦《たて》ゆれ(ピッチング)に対する安定が増し、垂直尾翼を大きくすることによって、機首の左右ゆれに対する安定度が増すのだ。とくに、垂直尾翼を大きくして機首の左右ゆれに対する安定を大きめにしたことは、さきほどの胴体を長くしたこと、主翼幅を大きくしたこととあいまって、二十ミリ機銃を発射したときの機体の左右への揺れに対する安定を保ち、命中率を高めるのに大いに役立つはずであった。  このようにして尾翼の大きさを決め、尾翼の形は、主翼の形と調和するように考えて決定した。     操縦の手ごたえという問題  こうした安定性、操縦性の問題と同時に解決すべき問題があった。それは、操縦に対するパイロットの感覚と、機の反応のずれをどうするか、ということだ。戦闘機は、いうまでもなく、敵の戦闘機と格闘し、これを撃墜することが第一の目的である。目まぐるしく飛びかう敵機をとらえ、弾丸を命中させるには、自分の機が思うように動いてくれなければならない。とくに飛行機のスピードがどんどん速くなる傾向にあるから、ほんの瞬間でも、機がパイロットの意志に反した動きをすれば、あるいは勝機を逸し、あるいは不利な態勢におちいる。  すでに私は、九六艦戦でもこの問題を感じていた。従来の戦闘機にくらべ、ずばぬけて高速が出せたこの飛行機は、低・中速ではちょうどよいのに、高速では|昇降舵《しょうこうだ》がききすぎ、そんなときは|操縦桿《そうじゅうかん》の引き方を適当に加減しなければならないという声をきいた。そこでとった対策は、昇降舵を、最低速になる着陸にさしつかえない程度に小さくすることであった。速いとはいえ、九六艦戦程度のスピードなら、これで実用上問題はなかった。  その後、|暇《ひま》なとき、操縦桿の動きに対する昇降舵の動く角度を、機上で好むように変えられる、「|可《か》|変《へん》レバー|比《ひ》|機《き》|構《こう》」というものを考案し、試験してみたこともあった。その効果はよかったが、速度が変わるごとに、レバー比をいちいち手で変えるということは、瞬間を争う戦闘機向きではなかった。  九六艦戦はよいとして、十二試艦戦にはまったく新しいアイデアを出す必要があったが、それが私の頭にひらめくまでには、なお一年を待たねばならなかった。  このほかにも、さまざまな新機軸が打ちだされた。たとえば、航続力の増大のためには、機体の抵抗を減らし、エンジンの燃料消費率を引き下げるという方法のほかに、従来から物はあったのに活用されていなかった落下式増設燃料タンクを、抵抗の少ない、しかも落下の容易なものとし、これでちょうど往路をまかなうことにする。空戦に突入するときは、これを切り離して捨てるという寸法である。このように、計画された容量を持ち、しかも流線形をした落下タンクは、世界でもはじめてのものであった。  このような新機軸を打ちだすことは、苦しくもあるが、また、技術者|冥利《みょうり》につきる楽しみでもあった。  こうして設計は一歩一歩と進んでいった。同じ十二試艦戦の競争試作の注文を受けた中島飛行機が、競争試作を辞退した、という報告を受けたのは、ちょうど、こんな雰囲気のなかで仕事に没頭していたときであった。  私は、中島の設計陣の苦しみがよくわかった。われわれにしても、こうした連日の努力にもかかわらず、なかなか要求どおりの性能が出る確信はもてなかった。エンジンはいちおう三菱製の瑞星と決まったが、これもまだ性能上、完璧なものとはなっていなかった。また、定回転プロペラも、メーカーで必死の技術開発が続けられていたが、まだ期待どおりのものにはなっていないようだった。もし、エンジンの性能が思うように向上せず、定回転プロペラも使えないと仮定して、十二試艦戦の諸性能をそろって要求値に近づけようとすると、どの性能もあぶはち取らずになってしまいそうだった。  航続力や速度、空戦性能という、おたがいに相いれない性格を盛った要求に対して、この設計の初期に抱いた困難の予感が、依然としてわれわれをさいなんでいることを感じた。いったい、海軍では、この矛盾する要求性能項目の、どれとどれをもっとも重要視しているのか、それも知りたかった。     つぎつぎに描かれた図面  いろいろな疑問や不安はあったが、設計の作業は着々と進んでいった。拡大しつつあった日中戦争のただならぬ様相からしても、新戦闘機の完成は一日でも早くなければならなかった。  そんななかで、工場内の|風《ふう》|洞《どう》では、先日決められた三面図と機体各部の断面図にもとづいて八分の一の大きさに作られた模型によって、機体の実験がくり返されていた。この実験の結果は、設計に反映され、それから実物を作るための「製作図」と呼ばれる図面のうえにもおよぶのだ。  設計からこの製作図を出図する先は、工作部の計画課と検査課である。機体を組み立てるにはとうぜん組み立てるべき順序というものがあるから、設計ではこの組み立ての順序と、組み立てに要する部品のできあがりまでに時間のかかる順序とにしたがって、製作図を出す必要がある。計画課では、まずこの出図の計画を立てて設計に要求し、受け取った図面を工作部門の各係りに配り、その後の図面の管理をするのである。各係りではこの図面にしたがって、材料を削ったり、板を打ち抜いたり曲げたり穴をあけたりという加工を加え、機体の各部分の部品ができあがる。それが試作工場へ送られてはじめて、試作機の組み立て工事がはじまるのだった。  この一連の流れとは別に、検査課は設計から受け取った図面によって、部品や組み立てが図面どおり正しく行われているか、いわば裁判官のような役割をして各部の完全さを判定する。  こうして、組み立ての最初の段階で必要となる主翼の桁の断面図が出図の第一号として計画課に渡されたのが、昭和十三年の春まだ浅い三月のことであった。  その後つぎつぎと図面が作られ、その図面の内容や出図予定について、工場関係者とのあいだで打ち合わせがひんぱんに行われた。この試作工場の事実上の責任者は、私と同期に三菱へ入社した|由《ゆ》|比《い》|直《なお》|一《かず》君だった。彼は、ともすると遅れがちになる設計からの出図を督促しながら、上手に現場作業をさばいて、われわれの仕事をカバーしてくれた。ときには、たとえば、試作工場側から、ある部品の図面を先にほしいなどと言ってきて、まだ検討すべき点が残っている図面を、至急まにあわせて届けたようなこともあった。まさに、頭と手は多忙をきわめていた。     空戦性能か、速度か、航続力か  その多忙の中で、私たちは昭和十三年四月の春を迎えた。が、桜の花の咲くのも散るのも、気にとめている余裕などあろうはずがなかった。  その四月の十三日、横須賀の海軍航空廠で十二試艦戦計画説明審議会というものが開かれた。海軍では、試作機や外国から購入した飛行機と、それに関連するさまざまな兵器類は、すべて航空廠で基礎的な調査や試験が行われたのち、横須賀航空隊で実用試験が行われるならわしであった。そして、この両所の報告と所見を総合して、軍用としての評価が行われるのがつねであった。だから、この両所の飛行実験の主務者には、多くのパイロットたちのなかから選ばれた人が任命されることになっていた。  この審議会に先だち、会社から「十二試艦戦計画説明書」が海軍に提出され、別に服部課長のはからいで、その中の第一章第一節の「計画方針」が、特別のコピーとして関係方面に配られていた。その文章は、私自身で構想し、練りに練って書きあげたものであった。その中には、現在の航空技術で、「十二試艦戦計画要求書」を満足させる戦闘機を設計するには、重量軽減に対する常識を超えた努力と考え方が必要であること、そして、飛行機の価格は、目方や大きさによるのでなく、その飛行機の価値、つまりどのくらい役に立つかによって割りだすよう従来の査定の方法を改めていただきたい、ということまで書いてあった。  この日は、パイロットとしては、航空廠の戦闘機主務部員|柴《しば》|田《た》|武《たけ》|雄《お》少佐、次席|榊原喜与二《さかきばらきよじ》大尉、横須賀航空隊からは、戦闘機隊長源田実少佐、分隊長|板谷茂《いたやしげる》大尉、艦爆分隊長|奥《おく》|宮《みや》|正《まさ》|武《たけ》大尉などが出席していた。  席上私は、機の設計内容をひととおり説明したあと、かねて思い悩んでいた問題を、すなおにぶつけてみた。 「計画説明書の中に示すように、エンジンの性能向上がなく、そのうえもしも定回転プロペラが使えないものとして、性能を平均的に要求値に近づけようとすると、計画要求より速度が約十五キロ低く、格闘性能は九六式艦戦二号一型より劣るものにならざるをえません。エンジンの性能が向上し、定回転プロペラの信頼性が高まれば、話は別ですが……」  と説明し、さらにつぎのようにつけ加えた。 「航続力、速度、格闘力の三つの性能の重要さの順をどのように考えておられるのでしょうか、それをおうかがいしたいと思います」  これに対し、終始鋭い目つきで私の発言を見まもっていた源田少佐は、机の上に出されていたお茶を一気に飲みほして立ちあがり、 「九六艦戦が戦果を挙げえたのは、相手より格闘力がすぐれていたことが第一です。もちろん、計画要求は確実に実現してもらわねばならないが、堀越技師の質問にあえて答えるとすれば、格闘力を第一にすべきだと考えます。これを確保するためにやむをえないというならば、航続力と速度をいくらか犠牲にしてもいたしかたないと思います」  と、はっきりした語調で意見を述べた。これは私を信頼したうえでの答えと感じられた。  しかし、源田少佐のこの意見に対しては、同じパイロット側から反対意見が出た。 「異議あり!」といって立ちあがったのは航空廠の柴田少佐だった。彼は、六年まえ、私が七試艦戦の用事で航空廠に行ったとき、「低翼単葉型は格闘戦に向かないから戦闘機には疑問だ」と私に語ったが、三年まえ、九六艦戦の試験に立ち会うために会ったとき、私の前に来てていねいに一礼し、「まえに私は自分の短見のため、あなたにたいへん失礼なことを申しあげた。お詫びしたい」と言葉すくなに言って、ふたたび一礼した。|精《せい》|悍《かん》だが愛嬌をたたえた風貌をし、まれに見る名戦闘機乗りであると同時に、誠実で、典型的な武人であった。  その柴田少佐が、ふだんの人なつっこい顔を紅潮させて、つぎのように力説した。 「戦訓が示すとおり、敵戦闘機によるわが攻撃機の被害は、予想以上に大きいので、どうしても航続力の大きい戦闘機でこれを|掩《えん》|護《ご》する必要があります。また、逃げる敵機をとらえるには、すこしでも速いことが必要です。格闘性能の不足は、操縦技量、つまり訓練でおぎなうことが可能だと思います。いくら攻撃精神が旺盛で、技量がすぐれているパイロットでも、飛行機の最高速度以上を出すことは不可能だし、持ちまえの性能以上の長距離を飛ぶこともむずかしい。だから、速度、航続力を格闘性能よりも重く見るべきだと思います」 「しかし……」と、また源田少佐が立ちあがり、両者の白熱した議論がくりかえされた。両者はたがいにゆずらず、また、この論争の黒白を判定できる人もいなかった。  私は、この二人の息づまるような論戦を聞きながらこう考えた。この二人の意見は、だれが見てもそれぞれ正しいことを言っているのであり、それゆえに議論は永久に平行線をたどるだろう。この交わることのない議論にピリオドを打つには、設計者が現実に要求どおりの物を作ってみせる以外にはない。私としては、いままでにきめた設計方針にそって、重量軽減と空力的洗練を、徹底的にやりとおそう。そして、エンジンの馬力向上と定回転プロペラの実用化を促進してもらおう。そうする以外に、残された道のないことを、深く心に刻んだのであった。     「大きいけれど、かっこうはいい」  この審議会からまもない四月二十七日、実大模型審査が、三菱の試作工場で行われた。これ以後、わが十二試艦戦は、零戦として雄飛するまでに、あらゆる角度から試験と審査を加えられ、あっぱれな若武者に鍛え上げられていくことになるのである。  実大模型というのは、形も大きさも実物どおりに作られた模型のことで、すでに試作工場の中で実物の試作機より一足さきに製作が進み、この日をまえに完成していた。おもに木材で作られるが、エンジンや兵装艤装品は実物ダミー(代用品)を使うことが多かった。この模型について、外形、操縦席、およびエンジンまわり、装備品、計器板、脚、操縦系統など各部およびその付近の骨格、点検窓などの形や配置から、操縦者の視界、操作、点検、手入れに対して適当であるかどうかを審査したうえ、使用者が満足できるまで直すよう指示するのが目的である。  この日、海軍からは、航空廠飛行実験部長|吉《き》|良《ら》大佐以下約十名、その中には、柴田少佐、横須賀航空隊の板谷大尉などもふくまれていた。あれほど、日夜かんかんがくがくの論議を呼んだ十二試艦戦だけに、海軍の当事者も、一刻も早く実大模型を見たかったにちがいない。私も、このパイロットたちが、模型とはいえ、十二試艦戦の実物大の姿をはじめて見て、その第一印象をなんと言うかを聞きたかった。  パイロットたちは、工場につくと、|挨《あい》|拶《さつ》もそこそこに、試作工場にはいっていった。はいるなり、一同の口から出た言葉は、 「だいぶ大きいなあ」  という声だった。戦闘機乗りというものは、機の大きさをまず気にするものである。ようやくなれた九六艦戦より、胴体が一・五メートルも長く、翼幅が一メートル大きい十二試艦戦は、かなり大きく見えるのも無理はなかった。私は半年前、小さいほうのエンジンでいくより仕方がない、と思った自分の勘の正しさを改めて思ってみた。これでさえ、九六艦戦よりかなり大きいのに、大きいほうのエンジンを使っていたら、機体はさらに一まわり大きくなってしまっただろう。  しかし、ぐるりとまわりをめぐってみると、スピード感と軽快さにあふれた機体に、 「ひじょうにかっこうのいい飛行機じゃないか」  という賞賛が集まった。このパイロットたちのパイロットらしい率直な反応に、私は服部課長と顔を見合わせて笑った。  ひとわたり外部の点検を終わると、いよいよ、柴田少佐が操縦席に乗りこんだ。操縦桿やいろいろな操作レバー、計器類、機銃の位置が、パイロットにとって適当かどうか調べたり、板谷大尉と交代して、だいじなところは、二人で何ごとか打ち合わせたりして、そのつど、現場に並べられた黒板に問題点が書き記された。  こうして、ほぼ二時間にわたる審査が終わった。その結果、ちょっとした部品の位置の変更までふくめると、百数十ヵ条の改良の指示が出された。百数十ヵ条の改良というと、たいへんなことのように思えるかもしれないが、これは飛行機設計にとって珍しいことでもなんでもなかった。こうして、設計者とじっさいのユーザーであるパイロットが、徹底的に打ち合わせをくりかえし、はじめてほんとうに乗りやすく、取りあつかいやすい飛行機ができあがるのだ。その日から、私たちが、それらの部分の設計の手直しを開始したことはいうまでもない。     試作工事はじまる  その後、心地よい初夏の季節もまたたくまにすぎ、またむしむしと暑い名古屋の夏を迎えたが、設計作業は本格化し、現場への出図、部品の製作は着々と進んだ。じっとりと汗ばんだ手をハンカチでふきながら図面のチェックをくりかえしたこと、昼休みには息抜きのためにみなで工場敷地の南に接していた運河でスカル、カヤックなどボート遊びをしたことなども思い出される。  そして、伊勢湾からの潮風が涼しさを増しはじめた秋のはじめから、いよいよ試作工場で組み立て作業がはじまった。以前は、生産工場の一部を借りて試作が行われていたが、この十二試からは、試作工場という制度が採用されており、設計室のあった本館の向かいに、広場をへだてて建てられていた大きな建て物が試作工場にあてられていた。この試作工場では、まず組み立てに先だって、主翼、胴体前部、胴体後部という大きな三つの部分の組み立てのためのジグという|枠《わく》組みが、床にしっかりとすえつけられた。このジグのなかに、主翼なら、その全体をつらぬく三本の桁が通され、これらと大体直角にならんで翼の断面形を形造る|肋《ろっ》|骨《こつ》のようなたくさんの小骨など、いわば主翼の骨格ともいうべき部品が、正しい位置にしっかりと支えられるのである。  主翼なら主翼、胴体なら胴体などの全体が完成するまでに、約数ヵ月はかかる。それまで、各部分を正しい形に保つ役目をするのがジグだから、すこしの狂いも生じないよう鋼製の太い管などでがっちりと作られていた。私が、出図予定の約三分の一ほどを終えたある日、試作工場をのぞくと、ちょうど、この枠組みの正確さを検査しているところだった。直線、水平などの検査は、測量に使うトランシットのようなもので、一つ一つ念入りに位置をたしかめ、ごくわずかのずれも、すぐさまその場で修正の作業が行われた。  このような周到な準備ののち、いよいよ、主翼のジグに三本の桁が取り付けられ、つぎに小骨の取り付けがはじまった。二十五センチぐらいずつの間隔に肋骨のようにつけられた小骨の列の輪郭をたどって見ると、そこには、まさしく私たちが設計図に画いた主翼の形がほうふつと浮かびあがっていた。  同時に、すこし離れたところでは、胴体用のジグが前部胴体と、後部胴体に分かれてすえつけられ、そのジグの中で、胴体を輪切りにしたようなフレームがいくつも、大きいものから小さいものへと順序よくつけられ、まるで古生物の骨格標本のように、ならべられていた。  この試作工場では、試作一号機のほかに、海軍で行われる強度試験や振動試験に出す供試機と呼ばれる試験用の機体一機の製作が併行して進められていた。そして、さらに試作二号機の各部分を組み立てるためのジグも用意されはじめていた。     海軍部内の動揺  ひきつづき試作工場では、翼におさまる脚や二十ミリ機銃などを取り付ける金具が翼の骨組みにつけられ、翼端のほうから外板の|鋲《びょう》打ちがはじまった。鋲を打つ音で、大きい声を出さないと会話ができないくらいになってきた。主翼とはべつに組み立てられていた胴体も、ジグにフレームの取りつけが終わり、それと交差して前後に走る縦通材がおかれ、外板が張られるのも間近い状態になっていた。尾翼、補助翼、フラップなどについても、小ぢんまりとした組み立て用のジグが試作工場の隅の方にできかかってきていた。  このとき、悪くすると、ようやく順調になりかかっていた設計・試作作業のブレーキにもなりかねないような意外な動きが生じたのを私は忘れることができない。それは、海軍部内で、この十二試艦戦の設計方針に関する異論のようなものが出たことだった。  このころ、海軍部内では、日中戦争初期の戦訓から、各種の飛行機の性能や、空中戦闘法、攻撃法などについて、いろいろな問題や意見が出され、従来の機種に対する再検討や、新しい機種の開発についても、いっせいに活発な研究が行われた。その結果、横須賀航空隊と、中国の第一線にある第十二航空隊から、それぞれ海軍の中央に意見が提出された。  その中には、実現性のある合理的な提案も少なくなかったが、とくに注目されたのは、試作が進行している十二試艦戦の構想に対して、第一線にいる人びとが真っ向から反対をとなえた部分であった。それも、海軍の航空隊のなかでももっとも有力な隊から出された意見だけに、影響力も強いと思われ、設計を担当している私にとってショックといえるものだった。たとえば、専門の局地防空戦闘機を作れとか、艦上戦闘機は航続力よりも軽快性に徹せよとか、長距離掩護のための双発の戦闘機が必要であるとか、あるいは、航続距離の長い陸上攻撃機の編隊専用の掩護機として、陸上攻撃機に四方八方に|撃《う》てるような機銃をつけた飛行機を作れ、などという提案がなされていた。このうち、専門の局地防空戦闘機を作れというのは正しい意見であったが、艦上戦闘機、双発戦闘機に関する意見は、いま私たちが十二試艦戦に盛りこもうとしている諸性能を、二種類の飛行機に分散してしまったようなものであり、とくに最後の長距離掩護機の提案にいたっては、飛行機の速度と運動性を、軍艦と同じ程度にしか考えていないのではないかと思われるような|荒《こう》|唐《とう》|無《む》|稽《けい》な構想にすぎないと思えた。  また、第十二航空隊の意見書のなかには、「翼内に装備する二十ミリ機銃などは、百害あって一利なし」ときめつけている一文もあった。私は兵装に関しては専門家ではなかったから、この意見にはとくに不安な気持ちにさせられた。いずれにしても、以上のようないろいろな意見を、もし海軍の中央が重要視して、十二試艦戦の計画を変えるようなことにでもなったら、いままでの私たちの苦労は水の泡となり、日本海軍にとっては大きな損失になる。いまさらそのようなことをしてもらっては困る、というのが、私の正直な気持ちだった。  海軍部内でのこのような動きを知ってまもない十月の半ば、私は、十二試のつぎの新しい戦闘機についての意見を交換するため、上京して航空本部の戦闘機担当官、|巌《いわ》|谷《や》|英《えい》|一《いち》少佐に会った。そのさい、横須賀航空隊と第十二航空隊の提案に対する以上のような私の見解を伝えると、巌谷少佐はかなり同意してくれた。二十ミリ機銃についても、第十二航空隊の意見は無視してもよい、と答えてくれたのでほっと胸をなでおろした。しかし、念のため、第十二航空隊の提案にそうような軽快性に徹した艦上戦闘機の性能を、ざっと見つもってくれないかと依頼された。  名古屋に帰るとすぐ、いそがしい設計作業のあいまをぬって、巌谷少佐の依頼どおり軽快性に徹した戦闘機の性能を見つもってみた。二十ミリ機銃をやめ、航続力を減らし、翼面積、翼幅を適当に減らすと、飛行機の重量は約一五パーセント軽くなり、運動性もそれだけよいものとなる。これならたしかに、九六艦戦の直後の後継機として、できた当座からパイロットに受け入れやすいものにはなるだろう。しかし、戦闘機としての寿命は短く、また、将来、馬力の大きいエンジンにとりかえて性能を向上させる余裕が少ないものになるとしか思えなかった。  それよりも、二十ミリ機銃と長大な航続距離、それに他の性能が高い基準にそろっている十二試艦戦ならば、かなり長く制空、掩護、迎撃の用途に使える。そのあいだに、本格的な迎撃用の局地戦闘機を開発する時がかせげる。このほうが、日本としてはるかに現実的な考え方だと確信した。さらに、資源がとぼしく、開発のためのマンパワーなどが劣る日本としては、少種精鋭主義に徹する以外に、外国に対抗する手段はない、という私の信念は、ますます堅いものになった。 「よし。もし海軍が計画を変更するようなことがあれば、自分は、信ずるところを堂々とのべよう。それが通らなければ、それはそのときのことだ」  こう考えると、私はすっかり気持ちが落ちついてきた。この十月から技術部長兼第一設計課長となった服部さんにこのことを話すと、黙って笑みを浮かべて聞いてくれた。それは、「心配することはないよ」というサインのように私には思え、勇気づけられた。  私は、これらのいきさつについて、チームの者の動揺をおそれて、曽根、畠中両技師以外にはなにも知らせなかった。このころは、強度計算、図面作業、部分強度試験など、ともにたけなわであった。風洞試験成績もひととおり出て、ちょうど、山に登りはじめるとき未知で不安の雲につつまれていた山頂が、近いところに見えてきた登山家のように、だんだんと不明の要素が少なくなってきた。それと同時に目標に手がとどきそうな気がだんだんしてきたのだった。  その後、航空本部が計画要求に変更を加えなかったのはさすがであった。しかし、海軍のあちこちで、十二試艦戦に対する期待と熱意が、多少冷却したように、なんとなく感じられた。だが、物さえできれば、設計の構想や実施のよしあしは証明される。われわれ技術に生きる者は、根拠のない憶測や軽い気持ちの批判に一喜一憂すべきではない。長期的な進歩の波こそ見誤ってはならぬと、われとわが心をいましめつつ、目のまえの仕事に精魂を打ちこんだ。    第三章 試験飛行     着々と進む試作工事  昭和十四年の正月が明けた。それは、私がこの半年のあいだに味わった、もっとも平和なひとときであった。十二年の六月に生まれた長男とも、このところ仕事に追われて、ろくに顔を合わせるひますらなかった。やっといま、親子そろった家庭らしい生活が、ちょっとの間でも復活したのだ。日のあたる縁側で長男を抱いて「高い高い」をしてやると、足をばたばたさせて大喜びだった。  昨年の正月は、|苛《か》|酷《こく》な要求書にどう立ち向かったらいいのか、はたして自分の力でそれがなしとげられるのかどうか、私の頭の中にはそのことが、冷たく重い鉛のように沈んでいた。そういう昨年の正月とくらべると、今年はかなりちがう。まだまだ、解決しなければならない問題点はいくつもあったが、会社の試作工場では、二台の試作機と海軍での試験用の機体の組み立てが着着とはかどっていた。チーム全員の協力に支えられ、この|痩《そう》|身《しん》に鞭打って、われながらよくぞここまできたものだと思った。  三ガ|日《にち》の休みが過ぎると、また、私は通いなれた港区大江町の会社へと足を運んだ。  松かざりをつけた正月気分の市電を降り、会社への五、六分の砂利道を歩きながら、工場に横たわるいまだ飛べない白銀の鳥のような新戦闘機の姿を目に浮かべた。一日も早く、この鳥に魂を入れてやらなければならないと思った。  この年の初仕事は、強度試験と振動試験のための試験用の機体を、海軍の航空|廠《しょう》におさめることだった。強度試験というのは、急旋回や背面飛行中の引き起こしなどのはげしい運動に、機体がどれほど耐えられるかをテストする。振動試験というのは、エンジン、プロペラなどの振動に機体が同調する性質を調べ、また、高速のとき機体に起こるフラッタという危険な振動がどのくらいの速度で起こるかを判定するのに必要なデータをとる試験である。両方とも飛行機にとって、重要な試験であった。安全率を引き下げた設計が強度試験にどう出るかも見ものだった。  試作工場をのぞくと、試作一号機のほかに、この試験用に作られていた機体が、主翼、胴体、尾翼などの各部分ごとにほぼ完成に近づき、あとは、この各部分を結合すればよいような状態になっていた。二号機は、まだ各部分の骨組みの組み立て中であった。  二、三日後、まず試験用の機体が、ついで一号機が、日をついでそれぞれジグからおろされ、各部分の結合が行われた。そして、構想をはじめて一年半、新戦闘機は、優美なうちに|精《せい》|悍《かん》さを秘めた姿を、ようやく、人びとの前に現わした。私は、その最終組み立て作業の現場に立ち会いはしなかったが、あとで試作工場へ行ってみると、いままでそれぞれの組み立て用ジグの中にあった各部分が一体となり、はじめて飛行機というまとまった形に作り上げられていた。まだ塗装もなく、工作のあとも生なましい裸の機体は、白く光る金属の肌をあらわに見せて、工場内を異様に威圧しているように感じられた。  ただ、いまここに翼を触れ合うようにして並んでいる二つの機体と、続く二号機のうち、一号機と二号機は、いずれ日をへずして、大空のもとに翼をきらめかせる日がくるのだが、試験用の機体は、一号機、二号機と形も寸法も構造もまったく同じに作られながら、じっさいにはエンジンも、その他の装備に関する部品も体内に抱くことなく、振動試験にかけられた後、強度試験場で耐えられるだけのいろいろな荷重をかけられ、ついにはつぶされてスクラップになってしまう運命にあった。  この試験用の機体を航空廠に納入するにあたり、まだ残っていたいくつかの作業を終えて、数日後、私と曽根技師は、二人連れだって横須賀へおもむいた。航空廠飛行機部と科学部の試験を担当する部員に会って、試験について打ち合わせをするためである。顔なじみの各部員は、正月の|挨《あい》|拶《さつ》もぬきで、待ちかまえたように機体のこと、試験のこと、そして試作機の工事の進みぐあいなど、矢つぎばやに質問を浴びせてきた。  各試験の細かい要目をとりきめながら、私は、いよいよ十二試艦上戦闘機の完成が、秒読みの段階にはいっていたことを、ひしひしと感じていた。  私と曽根技師が名古屋にもどると、工場では試験用の機体の納入の準備がすっかりととのえられていた。横須賀での打ちあわせにもとづいて多少の追加作業を終わると、機体は胴体の操縦席の直後のところから二つに分解され、貨車に積みこまれた。     第一の試験をパス  航空廠から振動試験ほかの結果を知らせるという通知がきたのは、それから二週間ばかりあとのことであった。  翌日、私が航空廠へ出頭すると、飛行機部の|松平精《まつだいらきよし》技師らが、試験結果を記録した綴りを持ってあらわれた。松平技師は、東大の船舶工学科の出で、私より年はいくつも若かったが、やがて、海軍の、いや日本の航空関係で、機体の振動問題をあつかわせては右に出るもののないすぐれた実際家に育った人だった。長身でいかにも貴公子という言葉がぴったりあてはまりそうな感じの松平技師は、 「堀越さん、振動試験はなかなかの好成績ですよ」  と言って、いつものようにおちついた口調で、てきぱきと試験結果を報告した。  それによると、こんどの試験用機体による振動試験の結果と、それと平行に彼の手もとで行われた模型による主翼フラッタ風洞試験の成果をつきあわせて、彼は、主翼のフラッタ限界速度、つまり、この機体の主翼が危険な振動を発生するぎりぎりの速度は、最近会社から提出した試験報告に記した時速約九百キロよりも、ずっと高いと推定していた。つまり、それだけフラッタは起こりにくく、きわめて安全であるということだった。この結論は、私にとって予想以上の吉報だった。強度試験は振動試験がすんでから行うものであり、これから数ヵ月はかかるものだった。  また、同じ航空廠の科学部の|今《いま》|中《なか》技師から、まえにわれわれが提出したデータにもとづいて作ったきりもみ試験用の模型による風洞試験の成果によって、尾翼の配置をすこし変える案が示され、すでに試作の進んでいる一号機、二号機では、応急処置として、胴体の後端下側に小さい|鰭《ひれ》をつけるように指示された。洗練されたスマートな機体に、そのようなものをつけるのは残念だったが、必要ならば仕方がなかった。  この日の試験結果の説明のうち、フラッタに関するものは、あとまで私の印象に強く残ることになった。というのは、このとき私は、フラッタ試験結果による結論になんの疑念ももたなかったが、そのために私たちは思いもかけなかった大事故を経験しなければならないことになったのである。しかし、このときは、だれもそれに気づかず、いままでよりずばぬけて高速、高性能化するはずの飛行機のフラッタ試験に関する理論的研究も十分にはなされていなかった。この試験結果のなかにひそむ問題点が明らかになるのには、まだ二年の歳月と、尊い犠牲が必要だったのである。     試作第一号機ついに完成  第一号機は急速に完成に向かって工事が進んでいた。  会社では、この試作機の完成検査を三月十七日と定めた。完成といっても、まだ内部にはいくらも細かい作業が残っており、ぴたりときょうが完成日というような日はない。ひきつづく作業の途中で、あとで述べるような全体的な検査ができる日を見はからって、完成検査というものを行う。言ってみれば、この完成検査の日取りを、いちおうこの試作機の完成という区切りにするならわしだった。  だから、われわれ設計スタッフや試作工場の人びとのなかにも、ついにきょう完成したというような、ドラマチックな感動の日はなかった。  ふり返ってみれば、いままでみんな一丸となってよくがんばってきたと思う。しかも、その間には、海軍部内に異論が出るなど、ただでさえ緊張と焦慮の日々に、さらにもう一つ気持ちを動揺させられるようなできごとが重なった。  できあがった試作機には、全体に鈍く光る灰緑色の塗装がかけられ、エンジン|覆《おお》いだけが黒く塗られていた。あらためて眺めてみると、たしかに九六艦戦より一まわり大きいが、直線的に処理されてぴんと張りつめたような主翼、エンジン覆いからなだらかに後ろにつながる流線形の胴体と尾翼の配置がよく調和し、ほぼ満足のいくできあがりだった。ただ一つの不満は、先日、航空廠科学部の今中技師に指示されたきりもみの性質を改善するための応急処置として、胴体後部下側に小さい鰭をつけなければならなかったことである。しかし、それ以外は、構想の初期に私が描いたイメージが、何千枚という図面をとおしてまさに忠実に現実のものになっていた。平面上に描かれた設計図が、いまこうして立体的な物体となって目の前にあることは、設計者なら、だれしも等しく抱く感慨であったろう。  その胴体に手を触れてみると、ひんやりと堅く冷めたかった。まだ、激しい空気の流れや、熱い排気ガスの洗礼は受けていなかったが、かろやかに床の上に立っていて、いまにでも小気味よいエンジンの音とともに、地面を離れて舞いあがりそうに見えた。  完成した試作機は、会社に駐在する海軍監督官の立ち会いのもとに完成検査に付された。この検査は、重量および重心の測定、主要外形寸度、外形の左右対称性、可動部の可動範囲などの検査、動力系統をはじめとする各系統の|作《さ》|動《どう》や機能を調べるものだった。  なかでも、設計の基本が定められたあとでは、重量が見積りに対してどのくらいの超過ですむかということが、設計者にとって最大の関心事であった。設計途中でも、もちろん設計が進むにつれて重量計算をくり返して正確度を高めるが、最終的には重量測定にまたなければならないのだ。  計画説明書を提出してから一年、一枚一枚の図面にスタッフ一同の重量軽減の努力がにじんでいた。機体の重量はなかなか減らないのに、われわれの体重ばかりが減るありさまだった。  |千《せん》|編《ぺん》|一《いち》|律《りつ》的な安全率の規定を洗い直して、新たな合理性のうえに設計方針を立てるという冒険的方法にはじまって、超々ジュラルミンの採用という、日本の航空技術史上画期的な事件にいたるまで、あらゆる手段を研究し取り入れた。このような、長い地味な重量軽減の努力が、はたして予期どおりの成績をあげたかどうか、それが判定されるのだ。  試作工場には、床の一部に機体重量を|量《はか》るための|秤《はかり》が置かれていた。この秤はいろいろな車輪間隔をもつ機体が量れるよう、二つの秤がレールの上を自由に動かせるようになっていた。この二つの秤のほかに、もう一つ尾輪を載せるための秤が用意される。こうして、三つの秤の上に機体を載せ、その三つの秤の示す重量によって重心位置が算出されるのと同時に、その三つの重量を合計することによって全重量が算出されるのだ。  機体は係員によって床の上を押され、左右車輪と尾輪が秤の上に載せられ、それぞれの秤に計測の係員がついた。  一瞬、沈黙が流れる。そして、息をのんで指針の動きを見つめていた係員が、やがてつぎつぎに指針のさし示した数値を読みあげる。一キロでも、一グラムでも少ない数値を示してくれるよう私は念じた。  記録された数値が加え合わされた結果、機体の重量は一千五百六十五・九キロと出た。周囲からほっというようなためいきがもれた。一年まえの計画説明書の見積りでは一千五百三十三・九キロであった。しかし、この一千五百六十五・九キロのなかには、すでに測ってあった海軍からの支給品であるエンジン、プロペラ、車輪の重量超過分合計五十五キロが含まれていた。だから、まだ取りつけられていない機銃の支え金具などのこまかい部品を全部含めても、機体側で起こる重量増加は、まったくないか、あったとしてもわずかであることが確実になった。つまり、この数字は、私たちの努力が十分報いられたことを示していた。  周囲を見回すと、私の方を向いて、ほほえんでいる三つの顔があった。曽根技師、畠中技師、田中技師である。その顔を見ただけで、私には、彼ら三人が心の中で「しめた」と叫んでいることがわかった。考えてみれば、長い緊張の連続のなかに、つかのま訪れるこのような喜びや|安《あん》|堵《ど》感を味わうために、私たちは毎日の仕事に没頭していたような気がする。若い課員には、まだこの数字の意味するものがわからないらしかったが、重量軽減に成功したことを告げると、みな一様に「やったぞ」という表情を浮かべた。  その後、三月末、|各《かが》|務《みが》|原《はら》格納庫で飛行開始直前に量った結果では、すべての部品をひとつ残らずとりつけたうえに、燃料、滑油の残量をふくむ全重量が一千六百二十キロと、一年前の計画説明書の見積りに対して、八十六キロの超過となったことがわかった。この八十六キロはすでに述べたように、エンジンやプロペラや車輪など、海軍から支給される部品に五十五キロの重量超過があるので、機体設計の責任に帰すべき重量超過は三十一キロにすぎず、これはわれわれが満足してよい数字だった。  というのは、飛行機設計のつねとして、もっと大きい超過分が出ても大丈夫なように、性能計算はいつも内輪にやってあるからだ。だからあとは、エンジンの馬力さえ予定どおりに出てくれれば、計画説明書にうたったような、世界に類のない高性能の万能戦闘機が誕生することはまちがいない。その判決は、飛行試験がしてくれる。その可能性がひじょうに濃くなったことを、私はこの検査成績から知った。     各務原飛行場へ  完成検査から一週間ほどして、試作工場で|残《ざん》|工《こう》|事《じ》を終え、数個の部分に分解され|梱《こん》|包《ぽう》された一号機は、三月二十三日午後七時過ぎ、牛車二台に分載されて、名古屋市の南はずれ、港区大江町の工場を出発、名古屋市内を夜のうちに通過し、|小《こ》|牧《まき》、|犬《いぬ》|山《やま》をへて、まる一日がかりで、約四十八キロ離れた岐阜県各務原飛行場の片隅にある三菱の格納庫に着いた。  完成した時速数百キロの飛行機を、時速三キロにも満たないノロノロの牛車に積み、一昼夜もかけて飛行場に運んだとは、一見、その逆の超時代ぶりに驚かされる。しかし、それは、大正時代から、日本が近代工業国化する道程で考えだした日本的な、うまい状況適応策であったとみられるのだ。  私が、この三菱の名古屋航空機製作所に入社してまもなく、欧米の航空工業を勉強しに海外へ派遣されたとき、訪れた飛行機工場のなかで、飛行場に隣接していない工場はひとつもなかった。しかし、そのころの日本では、飛行場の近くに工場を建てていたのは、|立《たち》|川《かわ》飛行機と、中島飛行機の|太《おお》|田《た》製作所の二つだけであった。これに、九試単戦のころ、川崎航空機工業の岐阜工場が、その仲間に加わっただけの状態であった。  この理由は、日本の国土に、平野のしめる割合が少なかったからである。少々の平野があっても、それはたいていよく|耕《たがや》された農地であり、東北や北海道の未開の平野は、日進月歩の技術の上に立つ工場としては、立地条件が整わなかった。  そこでいきおい、工場と飛行場は、かなり離れたところに位置せざるをえないことになったのである。  それにしても、そのように離れた飛行場に牛車でノロノロと運ぶというには、それ相応の理由がなくてはならない。それは、遠距離ということに加えて、道の悪さということがあげられる。当時、岐阜市と犬山町のほぼ中間にあった飛行場に行くのに、きれいに舗装されたハイウエーなどありえなかった。大半が砂利を敷いた穴ぼこだらけの曲がりくねった道だった。そんな道を、トラックや荷馬車で運んだらどうなるだろうか。軽金属や木製の軽い機体は、ガタガタと揺られたり、じゃまなものに触れたりして傷ついてしまう。そのため、静かで小回りのきく牛車が選ばれていたのであった。太平洋戦争前、一日数台ぐらいしか生産しない時期には、それで十分ことはすんでいたのである。  各務原格納庫に着いた新戦闘機は、その晩から昼夜兼行で、初飛行まえにすまさなければならない残工事、総点検、試運転、作動部のテスト、出先でできる手なおし、手入れ、重量と重心の再測定などがなされた。そうした最後の作業や、これからの飛行試験の|楽《がく》|屋《や》|裏《うら》にあたる整備の責任者は、いままで試作段階での総まとめ役であった|竹《たけ》|中《なか》|熊《くま》|太《た》|郎《ろう》工師だった。  竹中工師は、名古屋にいる私にもたびたび電話をくれ、整備の模様を告げてきた。試作工場との電話連絡によって、あるいは部品や材料が送られ、あるいは特殊技能工員が派遣されたりした。また、設計課からも、これらを追いかけるように降着装置の加藤技師、動力装置の田中技師などが各務原にとんだ。三菱名古屋発動機製作所からも泉技師を応援に出してくれた。  こうした作業の進みぐあいから、初飛行日は四月一日と決まった。この決定は、すぐさま三菱の本店へ、そして、本店から海軍航空本部へ、航空廠へと通知された。たびかさなる試験を担当し、あるいは立ち会ってくれた航空本部や航空廠の各部員が、「いよいよ飛ぶぞ」と言いあっているさまが目に浮かんだ。  安全率を引き下げた機体のため、私がひそかに注目していた航空廠の機体強度試験は、三月末までに飛行中にかかる最大の力をすこし越えるまで異常なくすみ、「飛行試験にさしつかえなし」との通知を受けていた。各務原では、竹中工師が試運転と徹底的な点検を行い、四月一日の初飛行は動かないものになった。  私はその報を受けるや、さっそく|浅《あさ》|田《だ》飛行課長と打ち合わせて、社内飛行試験方案を作った。それは、地上運転試験に始まり、離着陸、特殊飛行、急降下飛行などをへて、増設タンク落下試験に終わる合計十七項目、細目にして、数十項目にもわたる膨大な量のものになった。一項目一項目が、この飛行機の体質、能力を|験《ため》す意味をもっている。どの項目たりともゆるがせにはできなかった。数十項目の試験が、すべて好成績で終わってくれるよう祈らずにはいられなかった。  飛行試験日の前日の午後、私は浅田飛行課長とともに名古屋を|発《た》ち、東海道線で岐阜に向かった。何よりも心配なのは、天候であった。出かける前に会社から名古屋気象台に問い合わせた結果では、文句なしの快晴、風もほとんどないとのことだった。  その夜は岐阜市内に宿をとった。三月も終わりというのに、宿のこたつには炭がつがれ、外気は|冷《つめ》たかった。|冷《ひ》えるのは、明日の天気がよいことの前兆だと、私たちは話し合った。|案《あん》の|定《じょう》、宿の庭から見上げた空は星がいっぱいであった。     ついに飛んだ!  明けて四月一日、試験飛行の初日がきた。気象台の予報のとおり、空には一点の雲もなく、みごとに晴れあがっていた。私は各務原に着くと格納庫に行って約十日ぶりで一号機に対面した。  私たちが使わせてもらっている各務原の飛行場には、陸軍の建て物をはさんで、陸軍の飛行一連隊と二連隊の飛行場が東西に隣り合っていた。この日も、陸軍側の飛行訓練がしきりに行われており、それが終わってからでないと、飛行場を長く使う飛行試験は始められない。  午後四時、陸軍の飛行機は飛行を終わった。風向は西、風速は毎秒三メートルと報告された。日はかなり西に傾いていたが、あいかわらずの好天気だった。飛行場の北と南に連なる小高い丘陵の上にも、一かけらの雲さえなかった。白地にあざやかな赤い輪が三本ついた吹き流しがゆるやかになびいて風向を示していた。  係員が格納庫に駆けこみ、機体が引き出された。格納庫から外に出された機体は、春の午後の明るい陽ざしを浴びて一瞬まぶしく光った。  機体は数人の係員に押されて飛行場の芝生の上に出、機首を西に向けて左右の車輪に歯止めがかけられた。整備員たちはそれぞれの持ち場に立ち、私たちはややはなれて飛行機を囲むようにして立った。立会者は、海軍飛行監督官・西沢少佐、浅田飛行主任、設計責任者として私と加藤技師、今井格納庫主任、泉技師ほか十数人だった。  私は設計の全員をきょうここへ連れてきて進空の感激を味わわせたかった。しかし、仕事が忙しいので許されず、これから何日にもわたる試験のあいだに、かわるがわる、各自の担当の部分の試験のとき立ち会わせることにしてあった。  はじめてこの試作機を大空にはばたかせるテスト・パイロットは、ベテラン|志《し》|摩《ま》|勝《かつ》|三《ぞう》、新進の|新《あら》|谷《たに》|春《はる》|水《み》の両操縦士であった。志摩は海軍三等航空兵曹出身で、のち軍籍を抜け、航空廠飛行実験部で、単座戦闘機から双発陸上攻撃機まで数機種のテストにたずさわっていた。その抜群の技量の上に、|緻《ち》|密《みつ》な操縦ぶりと気の荒いことで鳴らした男だった。いっぽう新谷のほうは、東京工業大学の電気工学科を卒業後、海軍で操縦訓練を受け、資格を得たというかわった経歴の持ち主だった。この二人のうち、年長で老練な志摩操縦士が主務として、第一回目と、その後しばらくの試験飛行を担当することになっていた。  竹中工師がエンジンの運転をはじめ、バリバリという爆音とプロペラの空気を切る音の中で各部分の慎重な点検が終わると、飛行服、パラシュートに身を固めた志摩操縦士が、さっそうと飛行機に歩み寄った。彼の右足の|股《もも》のところには、操縦中に試験結果を記録するための記録板がくくりつけられている。その板にはさまれた白い記録用紙が、いかにも試験飛行らしい雰囲気をかもし出していた。  がっしりした体つきの志摩操縦士は、慣れた身のこなしで、乗降用の足かけ金具に足をかけたかと思うと、もうひらりと身軽に機上の人となっていた。  操縦席におさまると、彼もまた慎重にエンジンの調子と動力計器の指度をためし、|操縦桿《そうじゅうかん》、|方《ほう》|向《こう》|舵《だ》ペダル、フラップ・レバーなどをつぎつぎに操作して、|舵《かじ》とフラップの作動ぐあいをみた。  やがて、志摩操縦士は、ちらりとこちらを向くと、左手をやや高く上げて左右に振った。出発の合図である。  地上員がロープをすばやく引っぱって車輪止めをはずした。機は、するすると芝生の上をすべりはじめた。芝生のわずかな|凹《おう》|凸《とつ》を緩衝装置が吸収して、車輪が小刻みに上下に振れた。機体は尾輪を地につけたまま、やや上向いて見るまにわれわれの眼前を離れていった。それから、機はスピードを上げ、あるいは直進し、あるいは右に、あるいは左に旋回し、ときにはブレーキを踏んで停止した。こうして広い飛行場内を縦横に走りまわり、地上滑走試験を行った。  自動車とちがって、飛行機の車輪ブレーキは、左右べつべつに作動する。自動車のように車輪の向きを変えるハンドルは飛行機にはないから、左右のブレーキを加減するのと、方向舵の操作とを併用して、地上での方向転換を行う。そのため、ブレーキの効きぐあいがおかしいと、たんに制動がうまくいかないだけでなく、地上での方向転換にも支障をきたすことになる。志摩操縦士は、いったん機を出発点へ戻すと、エンジンをかけたままで風防をあけ、大声でブレーキが不調であることを訴えた。すぐさまブレーキ系統の調整をするため係員が走りよった。そして、第二回目の地上滑走試験を行った後、志摩操縦士はジャンプ飛行可能と報告した。ジャンプ飛行というのは、滑走から速度をはやめて地上数メートルほどのところをまっすぐ飛び、すぐ着地することである。  午後五時三十分、すでにかなり暮色のたちこめた飛行場の東端から、機は決然としていままでに数倍する爆音を上げて滑走をはじめた。人びとの視線は、地上を走るこの一塊に集中する。  機は真一文字に軽い砂煙を上げながら、西に向かって突っ走った。私は大空のものになるべくして生まれてきたこの試作一号機が、はじめて|目《ま》のあたりにそのものになる瞬間を息をのんで見守った。飛行場の東西方向、四分の一ほどのところまで、ぐんぐん速度を上げて滑走した機は、グイーンというような加速音とともに、ついにふわりと浮き上がった。そして、そのまま十メートルほどの高さを保ちながら、われわれの立っている前を、あっというまに通りすぎた。機はそのまま一直線に五百メートルほど飛んだのち、無事、接地した。エンジン音がやや低くなり、着陸の反動で、機体が上下にふわふわと大きく揺れたのが砂煙の向こうに認められた。  機は飛行場の西端で方向を変え、軽快な爆音をあげながらもとの位置に帰ってきた。  志摩操縦士は事もなげに風防をあけると、主翼に軽く足をかけ、とんと地面に降り立った。いつものことながら、全員の視線を一身に浴びて、剛気な彼には似合わず、ちょっと|面《おも》|映《は》ゆそうな顔をしたように見えた。私たちはわれ先に彼のまわりに群がった。 「三舵の効き、三方向のつりあいともに良好! ただし、ブレーキの効き不良」  彼は息をはずませるようにして報告した。三舵とは、水平尾翼につけられた|昇降舵《しょうこうだ》、垂直尾翼につけられた方向舵、主翼の両端近くにつけられた補助翼のことである。操縦席にある操縦桿をうしろに引くと昇降舵が上がって機体は上を向き、前に押すと昇降舵が下がって機体は下を向く。また、操縦桿を左右に動かすと、補助翼が左右逆に動き、機体は左右に傾く。同じく操縦席にある左右のペダルを足で踏むと、踏んだ足の方向に方向舵が動き機首はその方向に向くのである。  ジャンプ飛行は、この一回で終了した。そして、ただちにこのあと飛行機になじむための|慣熟《かんじゅく》飛行と平行に、安定・操縦性の検討にはいることにし、各部の点検、手直しをくりかえした。     「美しい!」  ついで、四月十二日まで志摩、新谷両操縦士によって、脚出し状態で低速の慣熟飛行が六回行われた。その結果わかった重要なことは、 「三舵は九六艦戦に似ている。上昇中、水平飛行中、エンジンをしぼって滑空中とも、そうとうの振動がある」  という二点だった。  三舵が九六艦戦に似ているということは、当時、九六艦戦がもっともパイロットたちから高く評価されていたことを考えれば、満足のいく結果であったことがわかる。しかし、振動の正体については、まだこの段階では、どう結論することもできなかった。とくに、もともとこの十二試艦戦は、脚を引っこめて飛行するように設計してあったから、脚を出した状態では気流がこの脚に当たって乱され、それが左右の水平尾翼をたたいて振動を誘発することもありうることだ。問題は脚を引っこめたときに振動が減るかどうかであり、この問題は脚出し状態での飛行試験中は棚上げにしておいた。  そして、四月十四日、はじめて脚を引っこめ、速度を上げて急旋回や宙返りなどの特殊飛行試験をはじめる日が来た。いままで、飛行機としての基本的な性質を試験してきたこの試作一号機が、この日からいよいよ、戦闘機として、その資格がためされるのである。  志摩操縦士が操縦席に乗りこむと、たちまち機は小気味よい爆音を残して地面を離れた。そして離陸するとすぐ、いままで邪魔物のようにぶらさがっていた二本の脚は、|蟹《かに》が|獲《え》|物《もの》をかかえこむように、左右からたたみこまれ、機の胸部におさまった。 「これでいままでの戦闘機とは明らかにちがう、いかにも新戦闘機らしい姿になった」  と私は思った。  たしかに、脚という地上だけで使う装置を引っこめてしまったあとの姿は、ついさきほどまで地上をころがっていたとは思えぬほど、完全に大空にふさわしい姿に変わっていた。  機は、二、三千メートルぐらいの高度で急上昇と急降下を何回かくりかえし、また宙返りや急旋回を何度も行った。そのたびに、鋭いエンジン音が大空いっぱいに広がり、甘い花の香を含んだ春の空気をビリビリと振るわせた。  私はその空気の振動を全身に快く感じながら、首の痛くなるのも忘れて空を仰いでいた。試作機は、やっと自由な飛行が許された若鳥のように、歓喜の声を上げながら、奔放に、大胆に飛行をくりかえした。ぴんと張りつめた翼は、空気を鋭く引き裂き、反転するたびにキラリキラリと陽光を反射した。  私は一瞬、自分がこの飛行機の設計者であることも忘れて、 「美しい!」  と、|咽喉《の ど》の底で叫んでいた。     不審な振動  この日の飛行試験と、いままでの飛行試験全般を総合して、二つの大きな問題点がクローズアップされた。それは、 「振動は、脚を引っこめても減らない。昇降舵の効き、重さは、低速では九六艦戦とよく似ているが、速度を出すにつれ、操縦桿をすこし動かしても、目立って重すぎ、効きすぎとなる」  という点だった。  まず、最初の振動の問題点については、脚を引っこめても振動が変わらぬとすると、原因は気流ではなくて、エンジン、プロペラ関係にありそうだ。つぎの飛行試験では、この点に注意しようと考えた。そして、翌十五日の飛行で、振動に関する一つの新事実が明るみに出た。振動の強さには、エンジンの回転数を変えて行くと、飛行機の速度とは無関係に山が二回あることがわかったのだ。  このことからは、つぎのような推論ができる。つまり、プロペラかエンジンか、あるいは、その両方の振動が、機体の固有振動と|共振《きょうしん》しているのではないかということだ。たとえば、コップをたたいたとき、チーンと音がするのは、このコップが一定の振動数で振動するからである。これと同じようにあらゆる物体は、それぞれある一定の振動数で振動する性質をもっている。その振動のことをそのものの固有振動という。だから、もしエンジンの引き起こす振動の振動数と機体の固有振動数が同じなら、とうぜんエンジンの振動は機体全体に伝わって機体をふつうよりはげしく振動させる。これが共振である。しかも、物体の固有振動数は一つだけではないし、また共振はその振動数の倍数でも起こるから、振動に二回の山を生じることもとうぜんありえた。  この問題を解決するには、エンジン、プロペラ関係に改造を施し、振動数を変えてやる方法が考えられる。手っとり早いのは、プロペラを二翼のものから三翼のものに変えることだった。  そこで、十七日と十八日、かねて用意してあった三翼プロペラにつけかえ、飛行を行った。その結果は、みごとわれわれの推論の正しさを証明した。志摩、新谷両操縦士の報告によると、振動は半減し、三翼プロペラならば、このままで実用にさしつかえないことがわかった。  これでいちおう機体が振動を起こす原因はわかった。しかし、私たちは、このまま三翼プロペラですませるか、あるいは二翼プロペラでほかに対策があるかという新たな岐路に立った。そこで、振動問題の専門家である航空廠の松平技師に来てもらうことにした。  そして、いろいろな調査の結果、エンジンを支える部分の防振ゴムを柔らかくしたところ、振動はかなり減り、これに、いままでとちがうピッチの変わらない固定節二翼プロペラをつけてみたところ、振動は減って、実用に|適《かな》うことがわかった。が、それは試験だけにとどまった。われわれの計画は、あくまでも定回転プロペラであり、まだ定回転の二翼プロペラをあきらめてはいなかった。それには、エンジンをささえる方法に根本的改善を加えなければならないという問題が、懸案として残ることになった。  もう一つの問題、つまり、昇降舵の手ごたえの問題は、振動の原因を研究しているあいだも、つねに私の頭の中にわだかまっていた。十七日、十八日の飛行試験の結果でも、あいかわらず高速になるほど昇降舵の手ごたえが堅くなり、ちょっと操縦桿を動かしただけで、機が大きく反応することが決定的になった。この高速で昇降舵がききすぎるという問題は、高速の戦闘機なら例外なくある問題のはずである。ただ、世界中の設計者とパイロットが、それを問題として意識しないだけだ。この問題は、世界に先がけて、ぜひ私の手で解決してみたい。私は、九六艦戦での経験を思いおこし、根本的に解決してやろうという意欲が涌いた。  ついで、四月二十五日、最初の試験飛行を行った日から二十五日目、はじめて重量を、三翼プロペラつきで正規に装備すべきものを全部積みこんだ状態の二千三百三十一キロに合わせ、性能と、安定・操縦性の試験をはじめた。その結果、注目されていた最高速度は、計算で出されていた時速四百八十キロという値をすこし上回る時速四百九十キロ以上と出た。そればかりか、のちになって、速度計の誤差を正せばさらに時速約十八キロ程度高くなることが判明し、最初のころはあれほど苛酷に見えた計画要求書の時速五百キロさえ、余裕をもって突破できることがわかった。     人間感覚にマッチした操縦応答性への挑戦  私は、これで社内飛行試験は第一段階を終わったとみて、五月一日、航空本部と航空廠の関係者に対し、第一号機のいままでの飛行試験の経過と、今後の試験予定などを報告しに東京と横須賀へ出張した。  航空廠では、意外な答えが待っていた。通例、九六艦戦のときのように、ある程度までの社内飛行試験が終わり、会社の手もとを離れて飛行試験が進められるようになれば、その試作機は、航空廠側へ納入され、その先の仕上げはそこですることになっていた。しかし、今回、私の報告に対する航空廠側の返答は、まだ大小の問題が残っており、その対策が会社側にあるようだから、会社の方針で仕上げが終わったという時期に受け取りたいというものだった。  この申し渡しを聞いて私はこう考えた。  なるほど航空廠側もよく見ている。これは、私の示した対策に常識的でないものがあるため、その実施と成果判定をくり返すプロセスのあいだは、会社でやるほうが適当で、かつ早いと判断したからだろう。また、三菱のパイロット陣の能力を買っているからでもあろう。それにしても、戦闘機の安定・操縦性の仕上げを会社にまかせたのは異例のことであった。私はさきごろから考えつづけてきた操縦応答性の問題の解決に、いっそうの意欲が涌くのをおぼえた。  また、この日、航空本部から、第三号機以降、中島飛行機の「栄一二型」エンジンを装備するようにとの申し渡しがあり、この三号機にA6M2なる記号を与えるとの通達があった。Aは海軍の艦上戦闘機を表し、6はこの十二試艦戦が海軍の艦上戦闘機として六番目のものであること、そして、Mは三菱の頭文字、2はこの三菱の十二試艦戦の二番目の形式であることを示している。試作一、二号機はA6M1であった。  私は、当面残っている問題点を整理してみた。  まず、最大の問題点は、昇降舵を低速でも高速でも、効きすぎたり、効きたりなかったりすることのないようにする根本的対策だった。ほかにも、二翼定回転プロペラを採用するための振動に対する対策、補助翼の低速から高速までの効き、重さなど五つほどの未解決の点が出ていたが、やはり、もっとも重要で手数がかかるのは、この昇降舵の効きの問題だった。というのは、この問題は、だいじな空戦性能をもっとも強く支配するし、未知の解決策の探求から、対策、試験に要する品物の設計、試作から機への取りつけ、そして、飛行試験という設計、試作、試験上のフルコースを必要としたからだ。  この問題は、一年まえの設計段階に顔を出し、そしてとくに四月十八日の飛行試験以来、私を捉えてはなさなかったものである。いままでのどんな飛行機の操縦系統でも、操縦桿の動きと舵の動きの割合は、低速・高速にかかわらずつねに一定のものであった。その構造は、操縦桿と舵とが、金属の管やレバーや、細い針金をよりあわせたケーブルなどでつながれており、操縦桿を動かすと、それに応じて舵が動くメカニズムになっている。そして当時は、これら操縦系統の各部分は、いずれも伸び縮みが少ないように、高い|剛《ごう》|性《せい》をもつように規定され、設計されていた。つまり、飛行機の速度が変わり、舵に加わる空気力が変わっても、操縦桿の動きに対する舵の動きがあまり変化するのはいけないとされていた。そのため、低速でほどよい効きをみせる昇降舵でも、高速では効きすぎて飛行機の姿勢がガクンと変わる。これは、風の強い日に|凧《たこ》がよく上がるのと同じ理屈である。舵の角度が同じでも、そこに当たる空気力が強ければ、それだけ舵が強く効いてしまう。かといって、高速でほどよい効きを得られるように設計したとすると、とうぜん、低速での効きが不足になってしまうのだ。  これをいままでだれも問題にしなかったのは、いままでの飛行機が、低速から高速まで速度の範囲があまり広くなく、したがって、この問題もあまりきわだたなかったからであり、また、そういう操縦系統の欠陥を操縦士のカンと熟練とによって、無意識に補っていたからであった。  この問題を問題とせざるをえなかったのは、十二試艦戦の速度の範囲がいままでの戦闘機よりも格段にひろがったこと、そして、もうひとつ、志摩操縦士が、どんな飛行機でも乗りこなして平気でいるような安易な名人気質に|堕《だ》さず、テスト・パイロットとして徹底して、操縦上の問題点の発見に努めてくれたことのためだった、と私は思う。  問題を整理してみると、操縦桿を同じだけ動かしても、速く飛ぶときは昇降舵がすこししか動かず、遅く飛ぶときは、昇降舵が大きく動くようにし、しかも最低速と最高速のあいだのどんな速度で飛んでも、その速度にふさわしい動きを示してくれればいいわけだった。これを実現するものとしてすぐ頭に浮かんだ原理は、速度の高低を圧力の高低に変え、その圧力で操縦桿と舵の動く角度との割合を速度に応じて変えるというものだった。しかし、その最後の段階のかんたんで確実なメカニズムが見つからず、私の思考は、はたと行きづまってしまった。     思いがけぬアイデア  ある日、会社の机の上でだったか、出社途上の電車の中でだったか記憶にないが、ふと、「操縦系統の弾性を利用できないだろうか」という考えが頭に浮かんだ。弾性とは、加える力に応じて物体がたわんだり伸び縮みしたりし、力を抜けば元に戻る性質のことである。その考えは、突然に私の頭を訪れたようでもあり、まえから頭のどこかで考えていたことのようでもあった。  操縦系統に、たわみや伸び縮みが起こりやすくすれば、つまり剛性を低くすれば、「飛行機が高速になる→舵の面にあたる空気力がふえる→操縦系統にかかる力がふえる→操縦系統のたわみや伸び縮みがふえる→操縦桿を大きく動かしても舵はふつうより小さくしか動かない。低速になると、この反対の現象が起こる」。  私の頭の中で、このような一連の連想が瞬時に起こった。ただ、この方法を用いると、操縦系統の伸び縮みのため、たとえば舵の効きに遅れが出るのではないかということが、とうぜん疑問となる。しかし、つごうのいいことに、金属など個体の伸び縮みが、一方のはしから他のはしまで伝わる速さは、目にもとまらないほど速いから、この心配はしなくてよい。 「これはうまい!」  思わず、私は心の中で叫んだ。だが、あまりかんたんな方法なので、じっさいに飛行試験してみるまではたしかな自信はもてなかった。  このアイデアを、服部課長はじめ曽根技師たちに話してみると、彼らは一瞬、 「うーん!」  と|唸《うな》って半信半疑のような顔をしていたが、このアイデアの意味をのみこむのに時間はかからなかった。みんな口ぐちに、 「これはおもしろい。ぜひやってみましょう」  と言ってくれた。  しかし、さきほども述べたように、そのころは、操縦系統が伸び縮みするのは悪いこととされ、伸び縮みしない性質、つまり剛性の、最低必要な限度をひじょうにきつくきめた規格が採用されており、一号機はその規格に合格してもいなかった。そのうえ、さらに、伸び縮みしやすい操縦系統にすることは、この規格を無視することになる。  私は、この昇降舵の操縦系統に剛性低下を採用することに、はたして実害があるかどうか、検討してみた。  まず、操縦桿を急激に往復させたとき、その直後、昇降舵に動揺が起こり、機体のピッチング(縦揺れ)を誘発して、しずまらないのではないか。また、ひじょうに小さい操縦桿の動きに対して効きが鈍くなるのではないか。しかし、それが心配なら飛行試験で容易にしらべられる。では、昇降舵フラッタを起こさないだろうか。両方ともすでに考えたところでは心配ないはずだった。  そもそも、操縦系統の剛性の最小限をきめた規格ができたのは、九六艦戦ののちのことである。なぜそのような規格が作られたのか、その理由について説明を聞いたことはないが、考えてみると、|羽《は》|布《ふ》張り機に舵の効きの悪い飛行機が多かったのは事実だ。しかし、羽布張り機では操縦系統をささえる土台がしっかりしていなかったため、舵の角度を必要なだけとれないことが、操縦系統そのものが伸び縮みするためだと見えたのではなかったか。そして、このたびの規格も、その対症療法として生まれたのであろう。ほかにどう考えても、この規格の出てきた理由は考えられなかった。 「よし! こうなれば、十二試艦戦ではこの規格を無視してもふつごうはあるまい」  私はひそかに決心を固めた。  その実行法はきわめてかんたんだった。いままで、操縦系統の剛性を規格に近づけるため、つまり伸び縮みを少なくするために、必要以上の強度をもたせてあった部材があるから、強度と耐久性を危うくしない範囲で、操縦系統全体としての剛性をかなり減らし、伸び縮みしやすくすることができるはずだ。もし、その範囲で伸び縮みが足りなければ、ばねを入れればよい。  こういう考え方にたって、さっそく私は、ありあまる強度をもたされていたケーブルや、捩りをうける金属管について計算を行い、ケーブルについて、いままで直径四ミリあったものを直径三・五ミリと三ミリに減らしたものを用意し、また、金属管の直径を五十ミリから三十二ミリに落としたものを用意した。これによって、十分な剛性低下がえられ、さらに強度、耐久性も十分なことを確認した。これがのちになって、「剛性低下方式による操縦応答性の改良」と呼ばれた方式であった。  五月末、私は初飛行以来の社内飛行試験の中間報告を海軍に提出したが、その中で、まずこの十二試艦戦は、もっともたいせつな点である重量軽減にかつてないほどの成功をおさめたことを特筆大書し、別に懸案の対策として、 [#ここから1字下げ]  昇降舵の低速時の必要なる効きを確保して、“高速時の効き過ぎ、重過ぎ”を満足に調節することは、水平尾翼の形状、面積の調整をもつてしては行きづまりに達したり。これは単なる“効き過ぎ、重過ぎ”に|非《あら》ずして、本機の速度範囲が拡大せるため“人間の運動感覚と飛行機の操縦応答性とのマツチング”といふ新しき問題が提起されたと見るべきなり。その対策として、尾翼の微少なる整形と、昇降舵操縦系統の剛性を規格下限値よりも相当引き下ぐることを考慮しつつあり。 [#ここで字下げ終わり]  と、はじめて文書で問題と対策を明らかにした。     操縦応答性に画期的な進歩  設計変更された新しい部品は、六月はじめにできあがり、各務原に届けられた。  六月五日、航空廠から廠長の|花《はな》|島《じま》|孝《こう》|一《いち》中将以下が飛行試験の視察のため各務原に来た。そして、この日はじめて昇降舵操縦系統の第一次剛性低下を実施し、志摩、新谷両操縦士によって飛行試験をすることになった。  この二人のパイロットは、はじめこの剛性低下方式をなんとなく気味悪がっていたようだ。私はすでにいろいろ検討して、いくら剛性低下といっても、そんなに大それた異変など起こるはずはないと信じていたが、パイロットたちにとっては、あるいはなにかとてつもなくぐにゃぐにゃした操縦系統がためされるのではないかといった感じがしたのかもしれない。  その日私は、最初ほかの用事があり、かわりに若い|東条《とうじょう》技師を試験に立ち会わせるべく各務原に送っていた。  ところが、志摩操縦士は、東条技師を見るや、 「なんだ。堀越さんはどうした。堀越さんを呼べ」  とどなったそうだ。  志摩操縦士にしてみれば、この気味悪い剛性低下方式とかいう操縦系統をもった最初の飛行試験に、設計主任の私が立ち会わないとはけしからんという気持ちだったのだろう。  東条技師は、困って私に電話をしてきた。私は笑ってしまった。もちろん、私は東条技師に信頼を置いて、彼を私のかわりに各務原に送ったのだ。  しかし、遠慮のない志摩操縦士のことだ。いったん言いだしたら、あとにはひかないだろう。私は苦笑しながら急ぎの用事を切り上げて、各務原に駆けつけた。  案の定、試験結果はすばらしいものであった。予期したとおり、高速で垂直旋回や宙返りを行うときに操縦桿の動きの量が大いに増し、そのため、パイロットの手に感じる堅さがやわらげられて操縦感覚がだんぜんよくなり、また、昇降舵をどんなに急に操縦しても、飛行機の動揺はすぐに|鎮《しず》まると報告されたのであった。  この結果は、私にとって、三月の重量測定結果、四月はじめの操縦性テストの結果につづく、三回目の喜びであった。  志摩操縦士は、ものごとにこだわらない性格だったから、さきほどどなりつけたことも忘れて、率直にこの剛性低下方式の成功を認め、その操縦性のすばらしさを言葉すくなに賞賛してくれた。あとでこの日のことを志摩操縦士に話すと、彼は「ウアッハハ」と大声で笑うだけだった。私はこのベテラン操縦士の|豪《ごう》|放《ほう》さが好もしかった。  この試験結果は、ただちに航空廠の飛行実験部に届いた。そして、六月十二、十三の両日、同部の担当パイロット|中《なか》|野《の》少佐、|真《ま》|木《き》大尉らが試乗の目的で各務原に来た。そのため、会社ではわざわざ前日一日飛行を休んで、エンジンはじめ各部の点検、手入れを行った。  しかし、運の悪いときは悪いもので、当日は朝からエンジンが不調で飛行不能、つぎにつけかえた予備エンジンも不調で、二日目も飛行不可能となってしまった。  海軍の人たちは、ブーブーと不平をならしながらも、海軍じこみのブリッジをしたり、エンジンの点検や調整を手伝ったりしながら二日間待ったが、けっきょく試乗を断念してむなしく引きあげていった。私は会社側としてたいへんばつの悪い思いをした。  戦前のピストンエンジン時代は、試作機の飛行試験日数の半分以上が、エンジンの故障、不調でつぶれるのがつねだった。このため、 「量産機の飛行試験は、おおむねエンジンの調整試験である」  というような悪口さえ言われるほどだった。  その後もエンジン関係の不調が相ついだが、七月六日、海軍から前回のメンバーが来て、はじめてじっさいに海軍側による試乗である|官試乗《かんしじょう》が行われた。その機会にあわせて、剛性低下をさらに進めた第二次、第三次の剛性低下飛行試験を行った。  そして、第三次剛性低下では、志摩、真木、中野、新谷の順で行われた飛行試験の結果、四人とも異口同音に、 「昇降舵については満足すべき状態となった。あらゆる緩急の操縦に悪いところはない」  と報告した。  これで、飛行試験の最大の問題はかたづいた。  私は満足だった。世界で類例のない細かい神経をもっていた日本のパイロットとともに飛行機を飛ばせ、彼らの言うことを分析、研究して、いま、人間パイロットの運動感覚にマッチする飛行機の操縦応答性をあみだすことができた。何年ののちにか、外国のパイロットも、かならず同じ欲求をもつときがくるであろう。そのとき、日本のパイロットと技術者は、何年もまえにこの問題を考え、解決していたことを知って、きっと驚くだろう。  私はその晩、岐阜の宿でなかなか寝つかれなかった。  つぎの日は、四月から懸案になっていた定回転の二翼プロペラの振動について、中野、真木両部員に検討してもらい、その結果、二翼プロペラをあきらめ、三翼にする決心がついた。     一号機、各務原を飛び立つ  さて、七月はエンジンの調子もよく、官試乗を含め、四十七回の飛行が行われ、懸案はほぼかたづいた。  八月二十三、二十四日の、二回目官試乗の結果、海軍側は、会社に求めた飛行試験による安定・操縦性の仕上げ、機体、エンジンおよび諸系統の故障、不具合がほぼ出つくしたと判断し、会社側が三月末以来の運転、操作、飛行などでたまっていた細部までの総点検、分解、手直し、清掃を完了ししだい、領収すると言明した。  そして、九月十三日、いよいよ各務原での最後の飛行である確認飛行が行われた。その結果、海軍側から、 「昇降舵の操縦応答性は満足なり。九六艦戦に比し、着陸時の手応えは軽く、効きは余っている」  という所見が発表された。  そのほか、補助翼の効き、重さに関する若干の問題が残され、急降下時加速がはやすぎるという所見もあった。急降下時の加速がはやいことは、高速機と闘うときに強味なのだが、このころはまだ、縦の面内でも小さくまわる性質の方を大事にしていたことが、印象に残った。  以上によって、日本海軍の戦闘機パイロットが、操縦性についていかにきめ細かい要求をもっていたか、とくに三舵のなかの主役である昇降舵の効きと手応えについてそうであったか、また設計者がいかに真剣にこれに立ち向かったかがわかるであろう。その結果、十二試艦戦の縦の操縦は、低速から高速まで、速度によってパイロットが微妙な加減をする必要がなく、つねに一の運動に対しては一の操舵、二の運動に対しては二の操舵でよいという性質が与えられた。これによって、パイロットの訓練期間は短縮され、空戦に射撃に、天下一品と称される独特の操縦性が生まれた。これは、人間工学的アプローチの成功であった。  私はこのころ、航空廠で飛行機の操縦応答性について講演し、「操縦系統の剛性の規定」を撤廃するよう当局に提案した。しかし、その提案は認められなかった。が、戦後になって、アメリカの規格から、この規定は姿を消していることを発見し、わが意を得たりと思った。  思えば約二年まえ、正式の海軍の計画要求書を受け、この年の四月一日の初飛行以来、四ヵ月半、総飛行回数百十九回、総飛行時間四十三時間二十六分、地上運転回数二百十五回、地上運転時間七十時間四十九分。会社に純粋の実用実験に移るまでの仕上げを任され、そのうえ、画期的な操縦性の問題の処理を含んだ飛行試験としては、きわめて順調に手ぎわよく運ばれたといわなければならない。  このときまでに定まっていた尾翼の形と大きさ、舵類と操縦系統は、こののちも最後まで変更がなかった。このことは、社内飛行試験に安定・操縦性の仕上げをまかせた航空廠の趣旨に百パーセントこたえられたということでもあった。また、飛行試験のいっぽうでひきつづき航空廠で行われていた強度試験では、安全率を引き下げた薄い部材のなかに、安全率の規定によって定められた力のまぎわで破壊するものが出てきたが、これはもちろん私たちがはじめから予期していたことであり、どれも安全率は一・六を越えていたので実質上飛行制限を加える必要はなかった。ただ、名目上一・八の規定に合格するためにすこしずつ補強しては試験をつづけた。こうしてちびちびとすこしずつ増やすという方法により、ある部材は一・八以下にとどまり、ある部材は一・八ぎりぎりのところでとどまることができ、重量を不必要に増やさないですんだのである。  こうして、確認飛行の翌日の九月十四日午前九時六分、海軍に受け取られることになった三菱十二試艦戦第一号機は、真木大尉に操縦され、まだ朝露のかわききらぬ各務原の滑走路から飛び立った。飛行場上空をゆっくりと一周、私たちに挨拶をするかのように翼を朝日にきらめかせたかと思うと、東の空に飛び去った。  その姿がやがて見えなくなるまで見送って、私は、胸に熱いものがこみあげてくるのをどうしようもなかった。立ち会った設計の技師たち、つい今まで、最後の点検にたずさわっていた竹中工師ら整備員たちの目にも光るものが宿っていた。若い整備員たちは、油に汚れた頬につたう涙をぬぐおうともしなかった。    第四章 第一の犠牲     はじめて出た殉職者  十二試艦戦の試作機がつぎつぎに|各《かが》|務《みが》|原《はら》の飛行場から巣立っていっていた昭和十五年の春、中国大陸では、三年まえにはじまった日中戦争が、ますます根が深くなり、日本はいわゆる泥沼に足をつっこんだような状態に落ちこんでいた。  昭和十三年のはじめごろまで、あれほどはなばなしく報じられていた九六艦戦の活躍ぶりも、このころはあまり聞かれなくなってしまった。これは、中国空軍が九六艦戦の行動半径の外に退いてしまったからであった。奥地に退いて再建をはかっていた中国空軍によって、|掩《えん》|護《ご》を伴わない陸攻隊は、しばしば手痛い打撃をこうむり、前線基地も、ときおり爆弾の見舞いを受けるほどであった。  この間、十二試艦戦のすぐれた性能は、ビッグニュースとして、現地部隊にも伝わっていた。そして、この新鋭機を、一日も早く、戦線に加わらせたいという現地の声が高くなった。そこで海軍航空本部では、昭和十五年四月末までに十二試艦戦を前線に送ろうと、その準備を整えつつあった。  私たちはこの知らせに喜び、十二試艦戦が試作・飛行試験という試練をへて、無事つぎつぎに海軍へおさめられるようになったことに満足しながらも、その満足感にひたっていることはできなかった。というのは、実用実験がまだすんでいない十二試艦戦には、実戦に参加するまえに、試験のうえ手直ししなければならないたくさんの項目が出かかっていた。また、ちょうどこのころ、十四試局地戦闘機の試作が、海軍から内示された。これは、迎撃をおもな任務とする陸上戦闘機で、のちに制式機「|雷《らい》|電《でん》」になるのだが、その設計のスタートのことが、私の頭に重くのしかかっていたのである。  しかし、十二試艦戦のできばえは、すでにこうして認められてきつつあったので、一昨年の秋、海軍部内に起こった異論と動揺のことを考えると、九六艦戦の試験飛行のとき、九六艦戦のできばえが、航空|廠《しょう》の予想をはるかにこえたものだということが判明して、航空廠をうれしがらせもし、また少々困惑させたことが思い出された。そして、九六艦戦のときに航空廠を|野《や》|次《じ》った海軍首席監督官のような人がいたら、こんどもまたおもしろいエピソードが生まれるのだが、などと思う余裕はあった。  その異論のなかで、艦上戦闘機は航続力よりも軽快性が必要だと述べられたように、一時、長大な航続力は、十二試艦戦の不人気の一大原因をなしていた。その長大な航続力が、いまでは現地部隊が本機を待ちのぞんでいる最大の理由であることは、当然とはいえ、おかしくもあり、愉快でもあった。じつをいうと、おかしいなどというべきことではなく、用兵者の考えがこのように変転することは、深刻な問題かもしれなかったが……。  こうして、十二試艦戦や新しい十四試局戦の目の前の仕事に忙殺されていた三月十一日、たぶん午後三時ごろだったと思うが、私がいつものように自分の机に向かって仕事をしていると、課内の若い社員が小走りにやってきた。そして、「部長がお呼びです」という。部長に呼ばれることはべつに珍しいことでもないから、私は、なんということなしに、すこし離れた部長の席へ歩いていった。  しかし、そこで部長から聞いた言葉は、電撃のように私の胸を打った。 「十二試の二号機が、横須賀で空中分解して、パイロットが殉職されたそうだ。すぐ航空廠へ行ってくれないか」  ——私は、頭から血が引いていくのを覚えた。  飛行機の試験飛行で事故が起こるのは、けっして珍しいことではない。強度試験や風洞試験をくりかえして、じっさいの場合に起こる可能性のある諸問題に対策をこうじてきたが、神ならぬ身に絶対ということはありえず、現実には予測もできなかったいろいろな問題が生じてくるのである。私も、未知の問題の多かった七試で二つの例に会っていた。しかし、そのいずれの場合も、パイロットは、パラシュートで脱出し、助かっている。今回の十二試では、いったい、何が原因で、パイロットが助からないような大事故が起こってしまったのだろうか。  私は、自分の席にもどると、いちおう設計スタッフの班長クラスの人たちだけに、この事故のことを告げた。みな一様に|眉《まゆ》をくもらせたが、いまここで、とやかくいってみてもはじまらない問題だった。     パラシュートは開いたが  課内にざわめきのように広がっていく驚きと心配をあとに、私はその日の夜汽車で横須賀へ駆けつけた。たんなる事故か、設計上の欠陥か、それにもまして、殉職したというパイロットのことを考えると心が痛んだ。寝台車のベッドに横になりはしたが、とても眠れなかった。遠くの席で、どこかの団体客であろうか、夜もふけるのに酒を飲んで騒いでいるのが、いやに耳についた。このうえは、一刻も早く事故の詳細を知りたかった。  名古屋から六時間半、大船ですこし待って乗り換えてから二十分、合計七時間あまりかかって、やっと航空廠のある|田《た》|浦《うら》駅へついた。夜の明けるのももどかしく、航空廠に出頭し、まず、飛行実験部部長室を訪れて部長の前に立った。  一瞬、何を言うべきか私は言葉を失った。そして、つぎの瞬間、不意に口をついて出たのは、 「申しわけありません」  という言葉だった。なにも、私たち設計者の責任とはまだきまっていない。しかし、ふしぎなことに、そのときはこの言葉がいちばん適当なように思えた。  そのあと、午前午後をつうじて開かれた会議に列席してはじめて事故の全貌を知った。  殉職したパイロットは、航空廠飛行実験部に所属する|奥《おく》|山《やま》|益《ます》|美《み》工手というテスト・パイロットだった。彼はその日、おりから緊急問題となっていた定回転プロペラのピッチ変換の不調を検討する目的で、急降下飛行試験を行っていた。ピッチ変換の不調とは、飛行速度によって自動的に変わるはずのプロペラ翼のピッチ、つまり、プロペラの一枚一枚の羽根のひねりの角度が、飛行速度の増減に応じて鋭敏に変わることができないことだった。これでは低速から高速まで、いろいろな速度で|敏捷《びんしょう》に動きまわる必要のある空戦に、十分な性能を発揮することができない。また、操縦者にとって不快なこまかい振動を起こす原因ともなった。  この試験に取りくんだ奥山操縦士は、練習機と戦闘機で飛行時間二千時間に近いベテランのテスト・パイロットだった。試験は、最初一千五百メートルから五百メートルまでの急降下を無事に終わり、つぎにふたたび、一千五百メートルから約五十度の角度で降下を開始した。  惨事はこのとき起こった。  目撃者の話を総合して航空廠飛行実験部の|中《なか》|野《の》少佐が述べたところによると、奥山機は四百か五百メートルほど降下したとき、引き起こした形跡がまったくないのに、「ビューン」とうなり音が聞こえ、ついで「バッ」という大音響とともに、一瞬のうちに翼と胴体がはなれ、プロペラ、エンジンなどが一塊となって急速に落下、他の部分もバラバラになって落下した。  奥山操縦士は飛行機から飛び出した。人びとは、 「パラシュートよ、開いてくれ」  と念じた。  まもなくパラシュートが開いたので、人びとはほっと胸をなでおろしたが、それもつかのま、高度三、四百メートルのところで、なぜか、パラシュートと操縦者が離れ、操縦士の体は急速に落下して海岸の浅瀬に無残にたたきつけられた。|主《ぬし》のないパラシュートが、そのすぐそばにくずおれるようにむなしく着地した。  落ちたパラシュートの調査と目撃の状況によると、奥山操縦士は空中でなかば失神しており、地上に降り立ったような錯覚を起こしたのか、落下中に手をもぞもぞと動かし、無意識のうちにパラシュートの止め金具を開いてしまったらしい。 「かえって、完全に失神していたら、あるいは助かったかもしれない」  私は奥山操縦士のために無念で仕方なかった。     不眠不休の原因調査  事故の原因を究明するための会議は、悲痛な空気の中で始められた。司会役の|杉《すぎ》|本《もと》飛行機部長が、まず、 「先入観をすて、慎重に調査研究をすすめ、ほんとうの原因と正しい対策をさぐらねばならない。しかも、それは早急にと要請されている」  と口火をきった。つづいて、いま述べたような中野少佐の目撃談のあとを受けて、昨年一月以来、十二試艦戦の振動試験を担当した、航空廠飛行機部の|松平《まつだいら》技師が立ち上がった。昨晩はよくねむれなかったのだろうか、蒼白な顔をしている。彼は、この会議に列席している者がひとしく抱いていたある予想——つまり、事故機は、フラッタを起こしたのではないか、という予想に、ずばりと切りこんできた。  フラッタというのは、飛行機が速度を増すと、主翼や尾翼、あるいは補助翼や|昇降舵《しょうこうだ》、|方《ほう》|向《こう》|舵《だ》などが、|旗《はた》が風にはためくような振動を起こす現象である。これが生じると、機体が激しく振動し、空中分解という惨事につながるのだ。もうすこしわかりやすいように、身ぢかな例をあげれば、たとえば、紙きれをつまんで息を吹きつけると、吹きつける息が弱いあいだは、紙きれはふわりと浮いている状態になっているが、息をだんだん強くしていくと、やがてはたはたとはためきだす。これが、フラッタである。この場合、紙を堅いものにかえれば、強い息を吹きつけないと、フラッタは起こらない。  戦闘機のように空戦中に急降下などで猛烈なスピードを出す飛行機は、とくにこのフラッタが起こらないよう、主翼をはじめとして、がんじょうに作っておく必要があった。いわば、フラッタは戦闘機の空戦性能を左右するだいじな問題である。一同の疑問は、まずそこに集まったのである。奥山操縦士の乗っていた飛行機は、急降下でスピードを増したときに空中分解を起こしたのだから、一同がフラッタが生じたためではないかと考えるのもむりはなかった。  ところが、松平技師は、その考えを否定して、つぎのような発言をした。 「この飛行機は、いままでの試験の結果からみて、時速一千キロ以上でなければ、フラッタの危険はありません。それに、いままでのフラッタによる事故の実例では、主翼から起こるフラッタの場合は主翼だけが破壊され、尾翼から起こるフラッタでは尾翼と胴体後部だけが破壊されています。こんどのように、全体が一瞬にしてばらばらになってしまった例は、いままでにまったくありませんでした。したがって私は、空中分解の原因はふつうのフラッタではないと思います」 また、拾い上げられたプロペラの三つの翼のピッチ角がたがいにひどくちがっていたことが議論の的となった。それは、機体を急に上に起こした形跡もないのに、「ビューン」という高いうなり音を発し、エンジンの部分から前が、空中でもぎとられたことから考えると、議論を呼んでとうぜんだった。  しかし、いずれにしても、いままでの調査や試験の結果からは、なぜこのような大事故が発生したのか、その原因のきめ手になるものはつかめず、奥山操縦士の死という重大な犠牲を前にして、私たちはただ首をひねるばかりだった。  そのあと、すこしでも早く原因をつきとめ、対策をたてるために、試験や調査のやりなおしなどの方針が決められ、十二試艦戦の飛行は、原因が判明し、対策が完了するまで停止されることになった。  それが、亡くなった奥山操縦士へのせめてもの恩返しだった。  私たちは、会議のあと行われた奥山操縦士の廠内告別式にそろって参列し、霊前に深く頭を垂れ、心の奥でお詫びをした。  そのあとで私は、拾い集めて工場内にならべられた二号機の残骸や、破片の散布状況図を見た。機体の見るも無残な破壊ぶりは、地上に落下したときにこわれた部分もあり、残骸の状態と散布状況から、どのような順序で機体が分解したのかを正確に推定することはむずかしいと思われた。  よく調べてみると、昇降舵につけられたマスバランスが、それを支える腕の途中で切断され、紛失していることがわかった。マスバランスとは、|舵《かじ》がフラッタを起こさないようにするためにつけられた一種の|錘《おもり》である。低速の飛行機にはいらないが、高速になればなるほど気流によって舵が振動を起こしやすくなるため、九六艦戦あたりからつけられるようになったものである。しかし、このマスバランスがなくなっていたことが、事故全体に対して、どのような意味をもつのか、即座に判定することは不可能だった。  機体のこわれた順序も正確にわからず、操縦者からの証言も一言も聞けないとあって、事故原因の解明には難航が予想された。  また、私たち会社側は、超々ジュラルミン材でできた主翼の|桁《けた》の表面の機械加工部にふてぎわがあったことを指摘され、設計者として赤面した。これに関し、会社は、原因調査に直接加わらないが、必要な試験用の金属片や資料を提供するよう求められた。  約十日後、会社から資料を提出するついでに、曽根技師を航空廠に派遣して、事故機の破壊状況を見せ、その後の原因調査の進みぐあいを聞かせた。航空廠は、四月一日に航空技術廠と改名されたが、その航空技術廠では、連日、不眠不休の調査努力を続けているということであった。そして、とくに松平技師の調査研究によって、四月早々、さしも困難と思われた事故原因の判定にこぎつけた。  これには、われわれ一同は大いに驚き、敬服した。  その調査報告によれば、事故はつぎのようにして起こった。 「昇降舵にとりつけられていたマスバランスが、たびかさなる着陸や、そのほかの衝撃によって、切損・脱落していた。このため、昇降舵がフラッタを起こしやすい状態になっていた。そして、その状態のまま急降下開始後しだいに速度が増したとき、昇降舵のフラッタがはしまり、それが急速に全機体に激烈な振動を誘発し、その結果、全機体が一瞬にして破壊を起こしたと推定される」  昇降舵にフラッタがはじまると、胴体尾部が上下に振動を起こし、さらに主翼の上下曲げ振動や、エンジンの上下首振りを伴い、そのうえ機体のピッチング、つまり縦揺れをともない、ひじょうに複雑な動き方をするので、短期間に厳密な実験と計算を完了することはまず不可能と思われていた。にもかかわらず、松平技師は、独特の鋭いカンと、理論と、簡略な模型実験とによって、一見、大胆とも見えるようなこの結論に到達したのだった。  だが、昇降舵フラッタによって、エンジン部分が機体からもぎとられるほどの激烈な振動が生じうるかという最初からの疑問は、大部分の人に残っていた。しかし、けっきょくは松平技師の判定が採用され、その結果|採《と》られた対策は、昇降舵のマスバランスを支える腕をじょうぶにすることであった。また、定回転プロペラの作動不良をなくすことも、対策のなかにはいっていたことはもちろんであった。これは、計画どおりの空戦性能を出すためには、ぜったい必要であり、そもそも、今回の事故も、この定回転プロペラの作動を調べるための飛行試験中に起こったものだった。  この対策によって、同一の事故がふたたび発生したことはなかった。このことを通じて、昇降舵のマスバランスが、これまでの飛行機の速度になれていた常識では、とうてい考えられないほど重要であることが再確認された。  いずれにしても、奥山操縦士の殉職は、速度の向上、定回転プロペラの採用など、技術上の未経験の領域に踏みこんだため起こったことである。その意味では、この十二試艦戦が高レベルにそろった多くの性能をもつにいたるために避けて通ることのできない事故であったかもしれない。しかし私は、この機体の設計責任者として、事故の翌日、飛行実験部長に|挨《あい》|拶《さつ》した言葉のとおり、じつに申しわけなく思った。わが航空技術界が、これによって貴重な経験の石を積み重ねたことを、はるかに奥山操縦士の霊に報告して、|黙《もく》|祷《とう》をささげた。    第五章 |初《うい》 |陣《じん》     試作機のまま、戦線へ  事故対策がすむと、航空技術|廠《しょう》飛行実験部と横須賀航空隊では、猛烈な実験が進められた。名古屋の私たちのもとへ、あらためて、十二試艦戦を七月中旬に中国戦線へ送ることになったという知らせがきたのは、五月のなかばごろである。 「いよいよ行くのか」  もちろんそういう感じもしたが、正直に言えば、「予定よりだいぶ遅れたなあ」という感じのほうが強かった。事故まえにたてられていた前線進出四月末という予定は、あらゆることが順調にはこんでという前提のうえに立っていた。だから、|奥《おく》|山《やま》操縦士の事故で、一ヵ月や二ヵ月の遅れが出るのはとうぜんであった。しかも、従来とひじょうに変わった試作機を、遠く、技術者や設備のそろっていない戦線に送るのである。実戦に参加させるための実用実験を行い、その結果を取り入れて改修をほどこし、同時に、パイロットの訓練をしなければならない。これらのことが余裕を見こまずに計画されていたことを考えると、合わせて二ヵ月近くの遅れはいたしかたなかったといえよう。  そのころ、私は、実用実験のために会社で準備すべき部品などについて打ち合わせるため、横須賀に出張した。日の丸のマークもあざやかに、青空の中を飛び回っている十二試艦戦を眺めたり、窓の外から聞こえてくる爆音を聞いたりしながら、この戦闘機が、もう会社や私たち設計チームの手からはなれたことを痛感した。実験の打ち合わせでも、私はすでに説明を聞くほうの側だった。  横須賀航空隊における実験の主務者は、前年末、戦闘機分隊長としてここに赴任してきたばかりの|下《しも》|川《かわ》|万《まん》|兵《べ》|衛《え》大尉だった。下川大尉は、はやくから十二試艦戦の真価を見抜き、その育成に力をそそいでいることで、私たちもよく知っていた。二号機の事故対策のために、幾度となく実験をくりかえしてくれたのも、下川大尉だった。  その下川大尉以下のパイロットたちによって、七月に前線進出という目標に向かって、実戦的な飛行実験が続けられた。たとえば、急旋回や引き起こしなど、いろいろな力のかかる状態での射撃実験が、数十回にわたって行われた。どんな飛行状態でも、二十ミリ機銃や七・七ミリ機銃が故障なく作動するよう、機銃自体にも、機体側の機銃用装備にも、こまかい改良や対策がこうじられ、実戦用の戦闘機としての仕上げがかけられた。  また、地上から一気に八千メートル、一万メートルと上昇すると、夏の地上で温められたタンク内の燃料が、冷却される|暇《いとま》なく高空の低圧にさらされるため、蒸発が盛んになってエンジンへの供給管に燃料の蒸気がつまってしまうベーバー・ロックという問題も発生した。しかし、この問題も、研究の結果、蒸発しにくい特殊燃料を使うことによって防げることがわかり、解決された。  このほか、落下増設タンクが高速で落下しにくいとか、長い空戦を続けるとエンジンのシリンダ温度が許容限度を越えてしまうとか、いろいろな問題が起こったが、関係者が一丸となって研究したすえ、あるいは解決され、あるいは完全とはいえないまでも、注意すれば切り抜けられる方策も見つかった。  こうして、実戦に使える見通しが立った七月のある日、私はいよいよ何機かの十二試艦戦が大陸へ送られたことを、海軍からの通知で知った。それ以後、大陸での状況は、ときどき海軍を通じて会社に技術的な改修の報告があっただけで、私は、次期試作機十四試局戦の設計構想に忙殺されながら、「大陸へわたった十二試艦戦は順調に訓練を続けているのだろうか」と、ときどき気になっていた。     「零戦」の名、ここに誕生  それからいく日かのちの昭和十五年七月末、十二試艦戦は制式機として採用された。そして、その年が日本紀元二六〇〇年であったところから、その末尾の|零《れい》をとって、「|零式艦上戦闘機《れいしきかんじょうせんとうき》・一一型」と名づけられた。「零戦」とは、この「零式艦上戦闘機」の略称である。  東京にある三菱の本店から所長にあてて送られた制式決定の文書の写しが、設計室にも回覧されてきた。  飛行機の名まえに、九八式、九九式などと、日本紀元の末尾の数字がつくのは軍の習慣だったから、十二試艦戦が零零式か、零式になるのは、とうぜんのことだった。十二試から零式へという名称の変化は、そのまま三年の歳月の流れを表わしているが、これは当時の単発機が設計開始から制式決定までに要する期間としては、ふつうのことであった。しかし、私はこの、「零」という名に、ほかの九八、九九などという名とはちょっとちがった異様な響きを感じたのを覚えている。  その当時、私は、日本がナチスドイツの側に立って、アメリカやイギリスを向こうにまわす大戦争に飛びこむなどとは夢にも思えなかったので、あとで零戦が外国のパイロットから「ゼロ・ファイター(Zero Fighter)」とか「ジーク(Zeke)」とか呼ばれ、栄光と悲劇の歴史をたどることになろうとは、まったく想像さえしなかった。「ゼロ戦」という呼び方は、こうした外国での評判などから戦後生まれた零戦の愛称である。     はじめての戦果  制式採用されてからも、なおしばらくのあいだ、この新鋭戦闘機が中国で戦果をあげたというような話を聞くことはなかった。それをはじめて耳にしたのは、中国へ進出の知らせを受けてから三ヵ月後の、昭和十五年九月十三日の夕方のことであった。  つね日ごろ物に動じない服部部長が、いつになくうれしそうな顔をして、開口一番、 「堀越君、大ニュースだよ」  というような意味のことを言ったのを|憶《おぼ》えている。  そして、きょう、中国大陸で零戦が敵機二十七機を撃墜するという大戦果をあげ、そのため、海軍航空本部では、その零戦を設計・製作した三菱重工、エンジンを設計・製作した中島飛行機、そして二十ミリ機銃を製造した大日本兵器の三社に対して、異例の表彰を決定したと教えてくれた。  あまりにも突然のニュースではあったが、それだけに、私の「ついにやったか」という感じも強烈であった。  部長はさらに、この表彰式があす行われるから、私も列席するようにということをつけ加えた。私は、きょうの戦果に、きょうの表彰決定、そして、あすの表彰式という、ことのはこびのすばやさに驚いた。しかし、このことで、海軍がいかに喜んでいるかがわかるような気もした。私たちは、その日の夜汽車であわただしく東京に向かった。そして、翌日、三菱の本店と三菱名古屋航空機製作所の幹部のあとについて海軍省で行われた表彰式に列席した。  すでに秋口というのに、暑さのはげしい日だった。いちおう背広とネクタイに威儀を正した私たちが、表彰式場に敷きつめられた赤いじゅうたんを踏んで中にはいると、海軍側や他社の列席者のなかにも私の知人が見え、みなハンカチで額の汗をぬぐいながら、肩をたたいて祝いを述べあった。  表彰式で読みあげられた感謝状は、つぎのようなものであった。 [#ここから2字下げ]   感 謝 状 昭和十五年九月十三日零式艦上戦闘機隊ガ重慶上空ニ|於《おい》テ敵戦闘機二十七機ヲ捕捉|之《これ》ヲ|殲《せん》|滅《めつ》シ得タルハ零式艦上戦闘機ノ卓越セル威力ニ|俟《ま》ツベキモノ多ク之ガ急速完成ニ貴社ノ払ハレタル絶大ナル苦心努力ニ対シ|茲《ここ》ニ|深《しん》|甚《じん》ノ謝意ヲ表ス  昭和十五年九月十四日 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]海軍航空本部長海軍中将 |豊《とよ》|田《た》|貞《てい》|次《じ》|郎《ろう》 [#ここから2字下げ]  三菱重工業株式会社   取締役社長 |斯《し》|波《ば》|孝《こう》|四《し》|郎《ろう》殿 [#ここで字下げ終わり]  この感謝状が読みあげられるのを聞きながら、私は中国の空に雄飛する零戦の姿をまぶたに描いた。  この空戦の成果は、この日の朝刊にも大々的に報じられていた。「|海《うみ》|鷲《わし》、敵機二十七を撃墜」というような見出しのもとに、はなばなしい戦闘のもようが、かなりくわしく記されていた。しかし、この報道には零戦の名称は一ヵ所も出てこず、零戦が飛びたった基地名も、機数も、「○○基地」、「○○機」のように伏せられていた。これは軍機密をあからさまにしないための配慮であった。ちょうどこのころ、全国で外国人スパイ網が、一斉検挙された矢先でもあった。  もちろん、この記事に出てくる戦闘機が七月出動した零戦であることはわかったが、そのほかには、新聞に報じられた以上のことを知ることはできなかった。  ただ相手となる敵機が、ソ連製のイ15、イ16というような旧式な戦闘機であろうということは、まえから推測がついていたし、また、新聞の報道でもそのとおりであった。だから、もし、同数でわたりあったなら勝つのはあたりまえだったが、当時中国に送られていた零戦の数は、せいぜい十数機であろうと踏んでいたから、ごく少数機でその二倍以上に相当する敵二十七機の全部を逃がさず撃墜したということは、たしかに驚異的なできごとであった。  会社に帰ると、案の定、設計室中がこの報道でもちきりだった。私も、表彰式のもようなどを話し、私たちが苦心して作りあげた零戦の戦果を、みなで喜びあった。  二、三日後、感謝状の写真が届けられた。会社が私のためにわざわざ作ってくれたのである。その写真は、戦後もしばらくのあいだ、黄色くなって私の手もとに残っていた。取り出して見るたびに、これを設計室に回覧したときの、一人一人のうれしそうな表情が、目に浮かんできたものである。     最初の空戦の模様  私がこの空戦の模様をくわしく知ったのは、戦後しばらくしてからであった。そして、それは私たちが想像していた以上にみごとなものであった。  それによると、戦線進出の特命を受けた大村海軍航空隊の|横山保《よこやまたもつ》大尉と、横須賀航空隊の|進《しん》|藤《どう》|三《さぶ》|郎《ろう》大尉は、七月下旬、それぞれ六機と九機の零戦隊を率いて漢口基地に飛び、当時、漢口を基地として活躍していた第十二航空隊に配属された。  そして、まず同十五年八月十九日、横山大尉の率いる十二機が九六陸攻五十四機の攻撃に呼応して、初の重慶進攻を試み、注意深く敵を捜しまわったが、重慶付近の上空に敵機はなく、トンビが飛んでいるありさまであった。横山隊ははやる心をおさえてむなしく帰還した。翌二十日には、進藤大尉の率いる十二機が出動したが、これもまったく同じ結果に終わった。  察するところ、中国空軍はすでに日本の新鋭戦闘機が戦列に加わったことをかぎつけ、巧みに退避している気配が濃かった。しかし、迎え撃つ敵機がいなくなったということは、陸攻隊が思うままに軍事施設を選んで、正確な爆撃ができるという効果はあった。また、この零戦の重慶進攻は、世界の軍航空界に例のない単座戦闘機による往復一千八百キロの編隊長距離戦闘飛行という点でも、特筆に値することでもあった。零戦は、はやくも他に類を見ない持ちまえの航続力の|片《へん》|鱗《りん》を見せたのである。  九月十二日、横山大尉は再度十二機の零戦隊を率い、陸攻二十七機をまもって重慶に進攻、さらに燃料の許すかぎり奥地に飛び、敵機発見につとめたが、むなしく引き返した。しかし、この日は、隊員の戦意をかきたてる一つの情報がもたらされた。零戦隊と時を同じくして、高空から重慶地区の偵察にあたっていた九八式陸上偵察機が、写真撮影によって、地上に戦闘機が三十二機あることを確認したのだ。  この写真偵察と、いままでの情報を総合すると、中国戦闘機群は、日本海軍航空隊が重慶上空に達する直前に全部山かげに退避してしまい、日本機が帰途につくのを見届けてから、自分の存在を誇示するごとく、重慶上空に戻って乱舞し、そのあとで基地に帰るらしい。  横山、進藤両大尉は相談して一策を案じ、翌日の作戦にそれを実行した。     十三機で敵二十七機を撃墜  九月十三日、進藤大尉、|白《しら》|根《ね》|斐《あや》|夫《お》中尉の指揮する十三機の零戦隊は、九六陸攻隊を|掩《えん》|護《ご》して重慶に進攻した。いままでと同様に、陸攻隊が任務を終わるまでその上空を旋回しつづけ、陸攻隊が帰還の途につくと、零戦隊はその後ろを守るような隊形で帰路についた。  しかし、この日、その後の日本隊の行動は、いつもとすこしちがっていた。  九八式陸上偵察機一機が隊列をはなれて反転し、高度をとってふたたび重慶に近づいた。姿を雲の陰にかくして監視していると、はたせるかな、はるか西南の方向から、重慶上空に向かってゆっくり進んでくるいくつもの点々を発見した。  この偵察機から無電を受けた進藤大尉は、ただちに列機に合図して反転、十三機の零戦はふたたび重慶上空に向かった。彼は列機の高度を下げて、市街地の北方に誘動し、はっきりと相手の動きを見やすいように、味方を暗い方向に、敵機を明るい方向に置いて、南の空を凝視した。すると、相手は、まだこちらの存在に気がつかず、ゆっくりと市街上空にさしかかっていた。彼はすばやく敵機の数を計算した。三機ずつ一団をなす九団から成る、合計二十七機の編隊だった。  進藤大尉は、一機も|逃《の》がさず討ちとる隊形をとろうとした。まず高度を上げ、網を張るように各機を散開させ、各パイロットに速度を上げすぎないように注意しつつ、自分は敵の一番機に向かって突っこむと、二十ミリ機銃の引き金を引いた。部下の各機も、思い思いに|獲《え》|物《もの》を見つけ、それを目標に殺到した。二十ミリ機銃の威力はすばらしかった。敵機の主翼のつけ根に命中すると、主翼が飛び散ってしまうことさえあった。フルスピードで逃げようとして強い空気力を受けている敵機の翼に|炸《さく》|裂《れつ》する二十ミリ機銃弾が当たれば、ひとたまりもなく吹き飛んでしまうのはとうぜんだった。  敵機は、南京方面でお目にかかったことのあるソ連製イ15、イ16戦闘機とわかった。たちまち、敵の隊形は乱れ、三機、四機と黒煙を吐きながら落ちてゆく。  進藤大尉は急上昇し、空戦の場から離れて全体の戦闘を監視する位置をとった。下では高速の零戦が敵機を包囲する形をとり、中にいるイ15、イ16が一機、二機と落ち、たまに包囲網からのがれたものも、高速の味方機が追いすがって落とす。下方に逃げた一機は、味方機に追撃されて、機首から地上に突っこんで散乱した。  しばらくして、包囲網の中にも外にも、敵機は一機もいなくなった。  この間、わずか十分であったという。     設計技術の勝利  進藤大尉は、基地に帰ってから、この日の戦果をまとめてみると、撃墜が大部分だが、追いつめて地上に激突させたもの、あるいは、逃げた敵機が飛行場に着陸した直後を襲って、銃撃、炎上させたものを合計すると、正確に二十七機という数字になった。これに対し、味方十三機のうち、燃料タンクに被弾したもの一機のほか、三機が軽く被弾しただけだった。  進藤大尉は、これを奇跡とは思えなかったと語っている。なぜならば、敵機は何回も同じ手を使って成功したため安心しきっていたこと、その結果、絶好の位置、隊形で第一撃をかけえたこと、イ15、イ16とはまったくかけはなれてすぐれた零戦の速度、航続力、空戦性能、火力などから考えると、全機撃滅もとうぜんと思えたということであった。  初陣に参加したパイロットたちは、口をそろえて、 「敵機を追うとき、気をつけないと敵機の前へ出すぎる」  などと言っていたということだった。  この言葉は零戦の高速と加速のよさを|如《にょ》|実《じつ》に語っている。零戦は、旋回性能で定評のあった九六艦戦を速くしたようなものだったから、二倍の数の敵戦闘機を包囲することができ、その包囲網からのがれたものも全部とらえることができたわけだ。  初陣では、このほかにも、攻撃態勢にはいってから、落下タンクの|把《とっ》|手《て》を引いたが落下しなかったので、やむなくそのまま空戦にはいったが、ほとんど障害にならなかったという報告もあったという。零戦が軽く、しかも空気抵抗が少なく作られていたので、すこしぐらいの付属物がついても、イ16など当時の世界的水準を出ない戦闘機と戦うぶんには、まったく困らなかったのである。  海軍航空本部は、三社を表彰した直後、中島飛行機にも零戦を生産させることを決めた。こういう場合、製造権や特許権の問題は、民間同士における場合とはちがい、開発を担当した会社に対して海軍が適当な額の報償を支払い、海軍が指定した製造をうけもつ会社にいっさいの技術資料と技術援助を与えるよう、指示すればよかったようである。  航空本部の指示によって、九月下旬、中島の|小泉《こいずみ》製作所の幹部や担当の技術者などの一団が名古屋の工場を訪れた。私たちは、いっさいの資料を提供し、中島の人びととくわしい打ち合わせをした。中島で生産した零戦が流れ出したのは、翌十六年の九月であった。  こうして零戦の評価が定まったいま、私は海軍部内の、この飛行機に対する|独《ひと》り相撲的な動きを思い返した。  二年まえ、十二試艦戦の設計が進んでいたころ、有力な第一線部隊から、その万能戦闘機的性格に対して、不信を表明する意見が提出された。とくに第十二航空隊からは、 「翼内二十ミリ機銃は、百害あって一利なし」  というはげしい批判まで出て、海軍の戦闘機に関する方針は動揺し、最近にいたるまで、横須賀航空隊や航空技術廠飛行実験部のパイロットまでが迷っているようすだった。前述のように、一貫して零戦の実用実験を担当してきた下川大尉は、そのパイロットたちの迷いをさますために、タイムリーに横須賀航空隊に赴任してきたようなものだった。零戦を現地へ派遣する準備が二号機の事故を克服して早くできたことにも、この人の力が大いにあずかっていた。私は、下川大尉が、この初戦の活躍ぶりを、手ばなしで喜んでくれているのにちがいないと思った。  チャンスがありさえすれば、零戦はこのような戦果を毎日でも挙げることができる。相手と実戦において比較する場さえあれば、きわだった優秀ぶりを発揮する力をもっている飛行機だ。だが、一つ一つの性能数字の比較からは、だれにも、それほどきわだったこの飛行機の真価はわかるまい。 「戦闘機は勝負をする飛行機であり、性能記録をつくる飛行機ではない」  私は、十二試艦戦計画説明書の冒頭にこういう意味の文を書いておいた。だれがそれを読んで心にとめてくれたであろうか。  しかし、そのいっぽうで私は、千何百年来文化を供給してくれた隣国の中国でそれが|験《ため》されることに、胸の底に痛みをおぼえていた。     つぎつぎと施された零戦の改良  異例の表彰ということで飾られた初陣の戦果のあと、新聞はあいついで、大陸における零戦のめざましい活躍を報じ続けた。あいかわらず、零戦という名まえこそ出なかったが、「わが海鷲の大戦果」などという見出しの「海鷲」が、零戦をさしていることは、私たち関係者には一目瞭然であった。また、会社の工場では、零戦が量産体制にはいり、毎日のように、零戦一一型が一機また一機と海軍におさめられていった。このことからも、零戦の前線における働きぶりは察しがついた。  量産体制にはいってから、私が工場をのぞく機会も減ってきたが、それでも一週間に一度ぐらいは、こまかい設計変更とか改修のため工場に行くことがあった。  もちろん、当時は流れ作業などというシステムはなかった。広い組み立て工場には、まだ骨組みだけの機体から、もう塗装も終わって、明日にも送り出されるばかりの機体まで、いつも四、五機が並んでいた。工員たちは数人から十数人が一組となり、作業に余念がない。一つの工程を終えると、次の機体へ移り、ふたたび同じ作業に従事するのである。耳が痛くなるような|鋲《びょう》打ちの音のなかで私は、どなるようにして工員に声をかけて歩きながら、けっして表面に出ることのない、こうした縁の下の力持ちがいたからこそ、この飛行機もあれほどの成績をあげたのだと考えた。  こうして、一日平均一機が生産され、|各《かが》|務《みが》|原《はら》から横須賀に空輸されていった。これらのうち、第六七号機からは、艦上での取り扱いを便利にするため、左右翼端半メートルを上方に直角に折り曲げられるようにし、この型を二一型と呼んだ。そして従来の一一型にA6M2a、二一型にA6M2bという記号が与えられた。この翼端を折り曲げる機構には、試作工場の|平《ひら》|山《やま》|広《ひろ》|次《つぐ》技師の考案がはいっていることを今でも憶えている。零戦の型を表わす一一とか二一とかいう番号は、上の数字が機体の変化を、下の数字がエンジンの変化を表わしている。したがって、一一型から二一型への変化は、エンジンはそのままで、機体に目だった改造があったことを表わしているのである。  こうして、昭和十五年は暮れた。この年の末までに海軍におさめられた零戦は、試作機から数えて全部で約百二十機に達した。そして、まもなくこの二一型にはさらに改修が加えられ、第一二七号機以降、補助翼の後縁に、空気力を利用して補助翼の操舵を軽くするバランスタブという小さな翼のようなものがつけられた。従来の戦闘機にくらべて一段と高速化したこの零戦には、試作機のころから、高速で飛行するとき補助翼の操舵が重いという苦情がパイロットたちから出されていた。このパイロットの声がだんだん強くなったため、航空技術廠の案で、|急遽《きゅうきょ》、バランスタブをつけることになったのである。  じつは、このバランスタブのついた機体に、のちになって思わぬ事故が起こり、尊い人命をもう一つ失わなければならないことになったのだが、そのときはだれにもそれを予測するすべはなかった。     戦闘機性能コンテストで大活躍  初陣以来、中国における零戦の目ざましい活躍が、連日のように新聞紙面をにぎわしているとき、内地においても、その性能を遺憾なく発揮したできごとがあった。それは、昭和十六年が明けてまもない一月に行われた陸海軍戦闘機性能コンテストである。  この|催《もよお》しは、昭和九年から毎年一回行われてきたものだが、日中戦争の|勃《ぼっ》|発《ぱつ》以来、自然に中止というようなことになって今におよんでいた。ところが、陸軍は、格闘性能で鳴らした九七戦|改《かい》に、速度と上昇力を生命とする迎撃機のはしりキ‐四四(のちの|鍾馗《しょうき》)、零戦に似た性格のキ‐四三(のちの|隼《はやぶさ》)の三機種がそろったのを機会に、格闘戦のほか、速度、ふつうの上昇力、ダイブ・アンド・ズーム(急降下に続く急上昇)、上昇旋回性能などの項目について、いわば性能コンテストの形で協同演習を横須賀航空隊に申し入れてきたのである。  海軍はこの申し入れを受けた。陸軍の三機種に対して、海軍からは零戦一機種のみが参加することになった。  このコンテストは常識的に考えても、零戦にとって損な要素がかなり多かった。というのは、零戦がそなえている貴重な特技である艦上発着、長距離掩護、そして二十ミリ機銃などは、このコンテストでは評価にはいらないからである。このような零戦の万能性にくらべて、陸軍の三機はいずれも、あるいは速度と上昇力を身上とする迎撃機であり、あるいは極度に長い航続力はもたない戦闘機であった。だから、それぞれの得意の種目だけで勝負するなら、零戦には苦戦が予想され、またそれが当然で、けっして不名誉なことではなかった。  しかし、その結果はまったく予想外であった。私は、二月十日に横須賀航空隊に出張したとき、このコンテストに出場した下川万兵衛大尉らから、零戦があげたすばらしい成績を聞くことができた。  それによれば、馬力のずっと大きいエンジンを積み、上昇力と高速を専門に作られていたキ‐四四にふつうの上昇力で負けたほか一項目も負けたものはなかった。零戦は急降下の突っ込みの加速が大きく、その余力を使ってふたたび急上昇する余力上昇性能では他機を寄せつけず、また空戦性能においても、陸軍の三機にまさった。ことに、縦の面内における旋回性能では、零戦が圧倒的にすぐれていた。 「もし、これに、コンテストの種目に含まれていなかった航続力や二十ミリ機銃などを加えて総合的に比較するなら、ますます零戦の優位は動かしがたいものになりますよ」というのが、下川大尉の話だった。  このような好成績が出たのは、零戦が空力的に洗練されていたことと独特の操縦応答性をもっていたために、操縦士の意のままに機が動いてくれたことなどが総合された結果であろう。  下川大尉たちは、「ほんとうにいい飛行機を作ってくれましたね。おかげで海軍も鼻が高いですよ」と言わんばかりのうれしそうな表情で、零戦が挙げたこの好成績を話してくれた。それを聞く私の顔も、きっとほころんでいたにちがいない。     全海軍の|寵児《ちょうじ》に  大陸における実戦の戦果と、陸軍戦闘機との性能コンテストの成績は、いかにがんこな海軍のパイロットにも、すなおに受け入れられた。一年まえ横須賀航空隊に移されたとき、九六艦戦よりも鈍重だといって好かれなかったこの戦闘機も、いまや全海軍の寵児となった。 「かわいい子には旅をさせよ」というが、これとは反対に、自分が子どもを連れて旅に出て、よその子とくらべてみて、はじめてわが子のよい素質がわかった親のような立場に置かれたのが海軍だった。  さらに、その後の実用実験の結果、計画当初には実現はむずかしいと思われたすべての要求を、十分に満たしていることがわかった。その理由は、新しいアイデアを含む機体設計の成功のほかに、設計者の要請したエンジンの性能向上がかなりかなえられ、定回転プロペラも実用にかなうようになったからである。計画説明審議会の席で、激論をたたかわせた|源《げん》|田《だ》少佐も|柴《しば》|田《た》少佐も、この性能ならば満足してくれるだろう。  だが、海軍側と私たち設計担当者は、その後零戦が、太平洋戦争前夜、戦争の初期、中期と、あいついで輝かしい手柄をたてていくあいだも、その裏で地味な改良作業をコツコツと続けていたのである。  とくに、空気が薄い高空を飛行するとき、エンジンの馬力が落ちるのを防ぐ対策が待ちのぞまれていた。このため、ちょうどそのころ、エンジン内に空気を送りこむ装置の回転数を二段階もうけ、高空では回転数を高いほうに切り換えられる二速過給器つきの|栄《さかえ》二一型エンジンが海軍のテストをパスしたので、さっそくエンジンをこれに換えることとし、三月には、そのための機体の設計変更をすませた。これは、三菱の|瑞《ずい》|星《せい》型エンジンを装備した試作機が、三号機から中島の栄一二型にエンジンを換えて零戦一一型となって以来、はじめての大がかりなモデル・チェンジであった。これがのちの零戦三二型、A6M3と呼ばれる機体である。  その後、中国における零戦の活躍は、昭和十六年の八月まで続いた。しかし、それを報ずる新聞紙面は、この年の初めごろから目に見えて検閲がきびしくなっていた。これは、一月に発令された、新聞紙等掲載制限令によるものだった。それだけ、日中戦争は悪化の|一《いっ》|途《と》をたどり、日本は国際的にのっぴきならない立場に追いこまれつつあったのである。  この間の零戦の戦いぶりを、のちに明らかにされた記録によって調べてみると、ほぼ一年まえ、零戦がはじめて中国戦線に投入されてから十六年八月三十一日までの総合戦果は、撃墜・撃破機数二百六十六機(うち不確実三機)であり、わが方の損害は、たった二機、それも地上砲火によるものであった。  つまり、空中戦で敵戦闘機とわたりあって|墜《おと》されたものは一機もなかったのだ。しかも、当時、大陸に送られていた零戦の数は、たった三十機内外であった。  昭和十五年九月十三日の初陣における進藤・白根隊、同年十月四日の横山隊をはじめとして、十六年五月二十六日までに、中国派遣の零戦隊は、支那方面艦隊司令長官から五たび感状を受けている。     米・英、零戦にいまだ気づかず  私は、制限されていた報道のなかで、中国の空を制圧している零戦のことを知ったが、同時に、この従来にない新しい性能を備えた戦闘機が、中国をはじめ、諸外国によって、どのように受けとられているかを知りたかった。  しかし、初戦以来、一年も戦場にその姿をさらしながら、ふしぎなほどこの零戦に対する外国からの反応は乏しかった。毎月取り寄せていたアメリカの飛行機雑誌には、欧米諸国の新鋭戦闘機の情報が満載されていたが、そこに零戦に触れた記事を一行たりとも見いだすことはできなかった。  この謎について、当時はついに十分な解答を得られないままに終わってしまったが、戦後になって私は、当時の中国における零戦に対する反応を象徴的に表わす一つの事実を知るにいたった。  それによると、中国では、国民党政府が昭和十二年以来、アメリカ陸軍飛行隊の退役将校クレア・L・シェンノートを招き、それまで各国の外人顧問が、まちまちの方針で指導していたために混乱していた中国空軍の建て直しをはかってきた。彼は確かな操縦技術と厳格な規律によって、大いに成績を挙げた。彼の発言力は増し、日本軍に対する航空作戦も彼にまかされた。  彼によって再建された中国空軍は、|悔《あなど》りがたい力を発揮しはじめた。昭和十二年八月、九月、護衛戦闘機を伴わずに出撃したわが攻撃機隊は、中国戦闘機によって手痛い目に合わされた。しかし、それも長くは続かなかった。九六艦戦が投入され、中国空軍をさんざんにたたきのめしたからである。彼はもともと戦闘機パイロットで、九六艦戦の高性能をほんとうに理解することができたから、九六艦戦の姿を見たらすぐ逃げるか、下を中国軍が守っている地域でのみ戦闘するという作戦をとり、奥地に退いて一時的に中国空軍は持ち直すことができた。彼はさっそく、この高性能の日本の全金属製片持ち式単葉戦闘機について、アメリカ陸軍にくわしく報告した。しかし、アメリカではこれを黙殺した。  そういう事情があっただけに、昭和十五年八月から九月にかけて、はじめて零戦隊が四川省の上空に現われ、思う存分暴れ回ったときのシェンノートの驚きは、まったく筆舌に尽くしえないものだった。彼は、アメリカはもちろんイギリスとオーストラリアにも向けて、彼が得た零戦に関するあらゆる情報を送った。それには、この日本の新鋭戦闘機に対する公平な評価と、米・英の空軍が、この戦闘機と交戦したら、どんな悲惨な結果になるかわからないという予言と警告が添えられていた。  しかし、彼の報告に対して、米・英の空軍はまたもや黙殺をもって答えた。数年まえまでは、日本の航空技術はほとんど外国に依存していた状態だったから、米・英から見れば、日本はいぜんとして、航空技術の後進国であるはずだった。彼らは、シェンノートから報告されたような高性能の戦闘機が、日本で設計製作できるはずがない、とかたく信じ込んでいたのである。  このようなわけで、太平洋戦争の|劈《へき》|頭《とう》、真珠湾、フィリピンなどで、米・英に衝撃的な打撃が加えられるまで、零戦の秘密が保たれたことは、日本海軍がひたかくしにかくしたこともあるが、米・英の上級軍人の近視眼によることが多かったと思えるのである。  二速過給器つきの栄二一型エンジンを装備した零戦三二型A6M3の初号機は、その年の六月から飛行試験をはじめていた。計算によれば、この栄二一型(高度六千メートルで九百八十馬力)を装備したA6M3は、栄一二型(高度四千二百メートルで九百五十馬力)を装備したA6M2よりも、最高速が少なくとも時速四十キロは増すはずであった。ところが、じっさいに飛んでみると最高速は、わずかに十キロそこそこ増しただけなのに、エンジンの重量、燃料消費量がめだって増えてしまい、少なからず失望した。これまで、飛行機の性能は、計算による数字よりも飛行試験でじっさいに測った数字のほうがよく出る傾向があった。それは、飛行中は前方から空気をエンジンの気化器におしこむため、地上で運転したときより大きい馬力が出るためであり、とうぜんのことであった。それが、このA6M3を境として逆の傾向になり、その傾向はだんだんはなはだしくなった。速度、上昇力ともそうなることからして、その最大の原因は、エンジンの高空における性能の研究が不十分で、その算定法が甘すぎたことにあるとしか考えられなかった。飛行機に対する搭載量と性能の要求がますます|苛《か》|酷《こく》になるいっぽうで、そのために必要な馬力が、十分に出ないということがあいつぎ、われわれはそれからというもの、“馬力ノイローゼ”になるよりほかなかった。    第六章 第二の犠牲     |下《しも》|川《かわ》|万《まん》|兵《べ》|衛《え》大尉の殉職  中国戦線からはなばなしい戦果が伝えられ、量産も軌道にのったが、零戦が太平洋上に無敵の勇姿を現わし、ほんとうにその真価を発揮するまでには、もうひとつ、厳しい試練が待ちかまえていた。第二号機による|奥《おく》|山《やま》操縦士の事故から一年後の昭和十六年四月、二人目の犠牲者が出たのである。  当時、ヨーロッパでは、一年半まえに起こった欧州大戦でフランスが敗退し、イギリス、ドイツのあいだで激しい航空戦が続いていた。陸上戦闘はバルカンから北アフリカに移り、いっぽうで、交戦・非交戦列強のあいだの外交上の駆け引きも盛んであった。このけわしい国際情勢のなかにあって、海軍航空部隊は、日夜、実戦にもまさる猛烈な飛行訓練を続けていた。  私が二度目の事故の報を聞いたのは、昭和十六年四月十七日の午後のことだった。そのとき、私の受けた衝撃は、二号機のとき以上であった。というのは、この事故で、私がよく知り、敬服していた横須賀航空隊戦闘機分隊長・下川万兵衛大尉が殉職されたからであった。  下川大尉は、重厚で|鷹《おう》|揚《よう》な性格に抜群の技量と激しい闘志、旺盛な責任感とたゆまぬ研究心を合わせ持ち、多くの人から期待をかけられていた。同僚は彼を「万兵衛さん」と愛称で呼び、先輩は、かげでも「下川」と呼びすてにせず、「下川君」と呼んで、特別の待遇をしていた。はじめ、十二試艦戦の価値を十分理解できなかったパイロットが多かったなかで、まっさきに十二試艦戦の真価を見抜き、率先してその育成に打ち込んできたのが、下川大尉だった。  私の設計チームの技師たちも、そうした飛行実験以来下川大尉のことはよく知っていた。私が、 「下川大尉が事故で亡くなった」  と告げると、 「えっ、下川さんがですか!」  と、みな異口同音に驚きの声を発した。     機体が十字形になって墜落  その晩、設計責任者の私、工作部の責任者|由《ゆ》|比《い》|直《なお》|一《かず》、|平《ひら》|山《やま》|広《ひろ》|次《つぐ》技師の三人が名古屋を立ち、翌朝早く航空技術|廠《しょう》に出頭して、「事故報告および原因探査研究会議」に列席した。  会議ではじめに行われた報告によれば、事故にいたるいきさつと、事故の状況はつぎのようなものであった。  まず、四月十六日午後、空母|加《か》|賀《が》の戦闘機隊分隊長・|二階堂易《にかいどうやすし》中尉は、千葉県|木《き》|更《さら》|津《づ》の海軍航空隊飛行場の上空で、宙返りや急降下などスタントの訓練をしていた。搭乗機は、補助翼の操舵を軽くするためにバランスタブがつけられた零戦二一型であった。頭から血が引き、目がくらむような激しい垂直旋回をしたとき、彼は左翼の外板に、いままで見ている|皺《しわ》よりはるかにいちじるしい皺がよるのを認めた。つづいて、軽い宙返りを行ったが、皺は大したことはなく、そのあと、激しい宙返りを行うと、またも左翼にまえのようないちじるしい皺が発生するのが認められた。  不安がチラッと頭をかすめたが、彼は予定の飛行訓練を続けた。そして、最後に高度三千五百メートルから約五十度の角度で急降下を開始し、高度二千メートル、時速五百九十キロになったとき、左翼外板のたるみが目立ってきた。静かに機首を起こし、時速約六百十キロに達したとき、体にも|操縦桿《そうじゅうかん》にもなんのまえぶれもなく、とつぜん機体にガクンと激動が起こり、目の前がぼやけ、意識が遠くなった。  中尉は、強烈な意志で失神状態から立ちなおると、飛行機はほぼ水平になっていた。そしてよく見ると、驚いたことに左右の補助翼は吹っ飛び、左右主翼上面の外板の一部がはぎとられていた。また左翼端に近い前縁についている、速度を計るピトー管は根元から折れ、速度計の針は時速三百キロ付近で止まっていた。中尉は、残された|昇降舵《しょうこうだ》を使って、沈着にこの破壊された機を操縦し、かろうじて木更津航空隊飛行場に着陸した。  この事故は、ただちに航空技術廠と横須賀航空隊に通報された。  横須賀航空隊の戦闘機分隊長である下川大尉は、この事故の報を受け、大きな責任を感じたらしい。当時、横須賀航空隊の格納庫には、二機の零戦があった。うち一機は、二階堂機と同じく、補助翼にバランスタブがついた零戦であったが、主翼外板に皺がよるという理由で、空母|赤《あか》|城《ぎ》から返されたものだった。事故を知らされた横須賀航空隊では、この零戦の外観を詳細に調べたが、その原因らしいものは、どうしてもわからなかった。そこで、二階堂機と同じ状態の飛行試験をやるのがてっとりばやいと下川大尉は考えた。  翌四月十七日午前、下川大尉は、まずバランスタブのついていない零戦で、高度三千八百メートルから約五十度の角度で急降下し、時速約六百四十キロで機首を起こしはじめ、高度一千二百メートルで機体を水平にした。主翼外板には、とくに注意したが、従来と同様に皺もたるみも少なかった。彼はこの年一月に行われた陸軍戦闘機との性能コンテストで零戦に乗り、時速六百八十キロまで出しているので自信があった。  つづいて、二階堂機と製造年月も同じタブつきの零戦で離陸し、地上の人びとの注視のなかで上昇した。  第一回目は、高度約四千メートルから約五十度の角度で急降下、約二千メートルで静かに起こしはじめて約一千五百メートルで水平にもどし、ぶじ終了。見上げていた人びとは、思わず|安《あん》|堵《ど》のためいきをもらした。  彼は、出発前、飛行隊長・|吉《よし》|富《とみ》少佐から、 「皺がよったら、ただちに中止せよ」  という注意を受けていたが、これを忘れるような男ではなかった。  しかし、第二回目、ふたたび高度約四千メートルから、六十度ぐらいの角度で急降下を開始、高度約一千五百メートルで引き起こしはじめたかと思われたとき、とつぜん、左翼から大きな白紙のようなものが飛び、ついで黒いものが飛ぶのが地上から見えた。つづいて飛行機は降下姿勢のまま二回ほど左に機首を回したのち、そのままの姿勢で海中に墜落した。この間、パラシュートも開かず、下川大尉は機から飛び出すこともなく、機と運命をともにした。  機体から目を離さず地上で見守っていた人の観測によれば、空中で尾翼も飛び、機体は胴体と主翼だけの十字形をしたまま、落下したという。  今回の破壊状況は、一年まえの第二号機の空中分解とちがって、飛行機は最後まであまり外形が変わらないまま落下していった。左右の補助翼と水平尾翼は空中で飛び散ったらしく、見あたらなかった。左右の補助翼が飛んで、左右の水平尾翼にぶつかり、胴体から離れた公算が大きい。機体、エンジン、プロペラは一体となって、激しい勢いで水面に落下し、そのショックで、メチャメチャになった。とくに機体は原形をとどめず、胴体を貫く|主《しゅ》|桁《けた》の一部と、主翼の外板と小骨の一部がくっついて一|塊《かたまり》となり、左翼端がもっとも損傷が少ない状態で分離していた。  このため、残骸の状況から、破壊の順序や方向の手がかりを得ることは困難と見られるということであった。     バランスタブがなぜ悪かったか  会議では、報告につづいて討議が行われた。論点は、補助翼にバランスタブがついている機体二機に、同じような事故が発生しているということにしぼられた。バランスタブは、航空技術廠の発案で付けられたものなので、すでに廠内で、検討がそうとう進んでいたもようであった。  バランスタブの効果は、まえにものべたが、補助翼の後ろの|縁《ふち》に、小さな翼のようなものをとりつけ、空気力を利用して操舵を軽くする目的のものである。ところが、会議での航空技術廠側の発言によれば、バランスタブは、ある程度の速度までは補助翼の操舵をほどよく軽くするが、あまり高速になると、バランスタブのために、操舵しないでも補助翼の後縁をおし上げる力が強くはたらいて、操縦系統が無理な力を受けてこわれたのではないか。あるいは、バランスタブつきの補助翼は、高速でも軽く動かせるため、大きな舵角を取ることができ、そのため、主翼や補助翼自体に空気力が大きくかかりすぎたのではないかということであった。  また別の見解として、事故の原因がフラッタではないか、という疑問も出された。この疑問は、バランスタブがつくと補助翼の重心が後方に寄るため、いままで考えていたフラッタより複雑なフラッタが起こるのではないか、ということであった。しかし、この種のフラッタは、時速七百五十キロ以下では起こらないと推定され、事故機の飛行速度がせいぜい時速六百五十キロだったことと、二階堂中尉が、「振動は感じなかった」と証言していることを考え合わせたうえで、松平技師ら航空技術廠側からは、フラッタに関しては楽観しているという意味の見解が述べられた。  そして、バランスタブがついた補助翼を操舵した場合の主翼、補助翼、そして操縦系統の強度計算をやりなおさなかったことに、航空技術廠側は責任を感じている、という率直な発言があった。  この日は、それぞれの立場からいろいろの見解が述べられただけであった。  二号機の事故のときと同様、私たちは、直接、原因研究に加わることにはならなかったので、松平技師を中心とする航空技術廠側の原因研究の成果を、注目して待つことになった。  私たち三人は、会議のあと、まず拾い集められた下川機の残骸を見た。この機体とともに、前途有望な下川大尉の三十三歳の生命が散ったのだ。三人はしばらくのあいだ言葉もなく、二号機ほどバラバラではなかったが、やはり無残に変形した機体に見入っていた。だが、いつまで|眺《なが》めていても、会議で発見された以外の原因のヒントはみとめられなかった。私たちはつぎに二階堂機を見ることにした。  これも会議で説明されたとおりの状態だった。左翼の外板が|剥《は》ぎ取られた跡には、|沈頭鋲《ちんとうびょう》が桁に残り、外板が鋲孔からすっぽ抜けて口を開いていた。すっぽ抜けた鋲の頭はみなきわめて小さく、すっぽ抜けに対する抵抗はいかにも弱そうだった。その対策として、沈頭鋲の頭がうずまる桁の面のへこみを、もっと大きくしなければならないことを三人は|胆《きも》に銘じた。  また左翼によっていた皺をよく調べてみると、その皺のより方から、翼の前縁を上方に、後縁を下方に|捩《ねじ》る力によってその皺が生じたことがわかる。右翼外板に残っている皺は少なかった。  その日の夕方、私たち三人は、横須賀航空隊で行われた下川大尉の葬儀に参列した。下川大尉は死後進級して少佐になっていた。葬儀は神式だった。  私は、下川少佐の遺影の前に立つと、二ヵ月まえ、陸軍機との性能コンテストの結果を語ってくれた下川大尉のことが思い出された。あのとき彼は、 「こんなにすばらしい飛行機を作ってもらって、海軍も鼻が高いですよ」  と、あのはげしい気迫をどこに秘めているのかと思われるような柔和な顔を、さらにほころばせて、私の手を握ってくれた。そのときのうれしそうな顔が、ちょっとほほえんでいまにも話しかけてきそうな遺影と重なり、私は両眼から涙があふれでるのをどうしようもなかった。  研究心と責任感の強いこの人は、隊長の厳重な注意を忘れたわけではないが、事故の原因をなんとかつかもうという気持ちから、事故機をなんとか無事に地上に着けようとして、飛行機から脱出するタイミングが遅れ、あの惨事になったのにちがいなかった。     大きく飛躍した航空技術  それから一ヵ月半たった六月十三日、航空技術廠で事故調査委員会が開かれ、その席上、航空技術廠の松平技師らによって、事故に関する結論が発表された。三菱から、私と曽根技師とが列席してその報告を聞いた。  事故原因としてあげられたのは、事故当時、「楽観している」という見解が述べられたフラッタであった。  私は、一ヵ月半まえの会議からあとの松平技師の研究の|紆余曲折《うよきょくせつ》に深い関心をいだいた。  彼は、あのような見解を持っていたものの、二号機による奥山操縦士の事故の教訓もあり、やはりフラッタのことが気にかかっていた。  そこで、彼は、下川大尉が乗っていた零戦の残骸と、二階堂大尉が乗っていた零戦を、あらためてじっくりと眺めた。そして、二階堂大尉が乗っていた零戦の主翼に、いまなお残っている皺に、注意の目を向けた。  松平技師がたどった推論は、つぎのようなものだった。  この飛行機は、はげしい宙返りなどのときに、主翼の外板がたるんだという。そのように外板がたるんだ主翼は、正常な状態のときにくらべると、|捩《ねじれ》る力に対して弱くなり、捩られやすくなっているはずである。とすれば、皺のない翼よりも低速で、主翼を捩る危険な振動が起こるにちがいない。  また、二階堂機の主翼に残された皺は、主翼の一部分に限られている。おそらく、その部分が捩る力に対する抵抗力のもっとも弱くなっていた部分であろう。ということは、主翼を捩る振動の振れ幅は、主翼の部分部分によってちがい、皺の目立つ部分が、もっともはげしく振れたであろう。  彼はハッとした。 「いままでのフラッタを調べる試験用の模型には、重大な欠陥があったのではないか——」  実物の数分の一のその模型は、あらゆる力学的性質を、実物をそのまま縮小したものでなければならない。つまり外形はもちろん、翼全体にわたって、|剛《こわ》さや重さの配分、空気力のかかり方なども、実物とそっくりに作らなければならない。つまり、フラッタを調べる実験には、実物との相似性がひじょうに高い模型を使う必要があったのだ。  しかし、いままで彼が接してきたフラッタ模型実験に関する文献では、模型の形や、各部分の重さの分布については相似性が挙げられていたが、剛性分布、つまり、模型の部分部分での振れ幅のちがいを実物と同じにするための部分部分の剛さの相似性を、はっきり指摘したものはまったくなかった。これでは、正確な答えは出ないわけだ。  彼にとって、これは新しい着想だった。もちろん日本においても、これが最初の着想だった。  彼は急いで、新しく主翼フラッタ模型製作にとりかからせるいっぽう、実物の振動試験と剛性試験を行った。その結果わかった剛性分布を模型に再現させ、実物と模型の振動の型の相似性を確保した。  こうしたうえで、この模型で行った実験と実物試験の結果から推定すると、実物がフラッタを起こす限界速度は、バランスタブがついた状態で、これまでの推定である七百五十キロを大きく下まわる六百キロそこそこ、バランスタブなしで六百三十キロ前後となった。  この結果、松平技師は、率直にはじめの判定の誤りを認め、四月十八日の会議での発言を取り消した。  つまり、当時のフラッタに関する知識は、この一段と高速化した飛行機である零戦にとっては、不十分であったのだ。そのため、フラッタ限界速度の推定があまかった。そのあまい推定のもとで作られた機体だったがゆえに、このような大事故を起こしてしまったのだ。  こうして、松平技師の新しい着想により、事故発生からわずか一ヵ月半で、あれほど困難と思われていた事故原因は、ついにつきとめられた。  つまり、こんどの事故で起きたフラッタは、主翼の捩れ振動と補助翼の振れとが、たがいにからみ合うという複雑な振動であり、補助翼が主翼と一体となって揺れる振動よりも、低速で危険な状態になることがはっきりした。その名も、「補助翼回転——主翼捩れ連成フラッタ」と呼ばれた。  そして、論議を呼んだバランスタブは、結果として危険なフラッタの起こる限界速度を低下させる作用をしたことがわかった。  その対策としては、主翼の外板を厚くし、縦通材という補強材をつなぎあわせ、捩りに対する強さを増すと同時に、バランスタブの反対側にマスバランスを追加して、バランスタブのわるい作用を弱めるなどの処置がとられ、制限速度も一時、時速約六百七十キロに引き下げられることになった。  こうして、今回の零戦の事故から、フラッタに対する認識は、徹底的に改まった。海軍の他の全機種についても、いちいち実物で飛行機の振動試験と模型風洞試験をやりなおし、制限飛行速度をそれぞれ引き下げた。この成果は、陸軍航空技術研究所などにも報告され、わが国の航空技術の向上に、大きな貢献をした。これ以後、零戦は、二度と同じ事故を起こさなかった。そして、また一歩、信頼性を高めたのである。  その大きな貢献の犠牲となった下川少佐の死は、私たち関係者はもちろん、全海軍軍人を感動させた。当時はすでにほとんど戦時態勢であって、銅製品の製造が一般民需用としては禁止され、わずかに有名な彫刻家のみが一定限度の銅の使用を許されていた。そのなけなしの銅をもらって、下川少佐の胸像が作られ、横須賀海軍航空隊内の海軍航空殉職者をまつる|追《おっ》|浜《ぱま》神社の|境《けい》|内《だい》に安置された。航空隊の南庭に急な斜面をもった松の茂る丘があり、その頂上に追浜神社があった。私は横須賀を訪れるたびに、この丘をあおいでは、下川少佐をしのんだ。海軍航空はじまって以来、このときまでに三十年、下川少佐のような破格の表彰を受けた人はそれまで一人もなく、そしてその後もなかった。    第七章 太平洋上に敵なし     零戦があれば戦える  昭和十六年六月二十二日、ドイツはソ連に対して、不可侵条約破棄通告と宣戦布告を相ついで発し、ソ連への侵入を開始した。  この日、私はたまたま自宅にいた。生後一年八ヵ月になる二男が高熱を出し、かかりつけの小児科医が往診中、号外の呼び声に私が飛び出して買ってみると、この報道であった。  私は|愕《がく》|然《ぜん》とした。ナチスドイツとソ連が永久に両立するはずもなかったが、いまソ連をたたかなければならないほど情勢は緊迫したのか。アメリカやイギリスは、ただちにソ連支持を表明したというから、私には、ナチスドイツが第一次大戦のドイツの二の舞いを踏むとしか思えなかった。そしてナチスドイツの前途は暗く、そのドイツとともに歩むことは、日本にとって危険な|賭《か》けだと考えざるをえなかった。  この小児科医も、「坊やはすぐ|快《よ》くなりますが、ナチスドイツの症状は危険ですね」と、深刻な顔をして帰って行った。  七月末、日本軍はフランスの臨時政府と交渉して南部|仏《ふつ》|印《いん》への進駐を開始した。これは、中国奥地への支援物資ルートを|遮《しゃ》|断《だん》し、同時に仏印から日本への原料供給を確保するためだった。  アメリカは、これに対する報復|措《そ》|置《ち》として、事実上の経済断交にうったえ、つづいてイギリス、オランダもこれにならった。これは石油、ボーキサイトなどの原料物資をこれら三国などからの輸入に頼る日本にとって、|喉《のど》|元《もと》を締められるようなものだった。とくに航空工業にとって、石油は飛行機の燃料であるガソリンの原料であり、ボーキサイトは、機体に使うアルミ合金に欠かせないものだった。このような情勢のなかで、陸海軍内部に、アメリカ、イギリス、オランダに対する開戦を考える空気が生じた。しばらくまえから、新聞の論調が、A(アメリカ)、B(イギリス)、C(中国)、D(オランダ)の圧力に反発する気分を出しはじめ、国民を対外強硬態度に追いやって行くように思えた。私はこれは危ない風潮だと思った。  こうした険悪な情勢の中で、私は心身を酷使した。ここ数年来の休むまのない緊張と過労の連続に加えて、|下《しも》|川《かわ》少佐の殉職事故のあとしまつや、零戦のこまかい改修をはじめとする問題が続いたうえ、新たに十四試局戦「|雷《らい》|電《でん》」の設計開始が重なって、私の体はすっかりまいってしまった。そして、ついにこの九月、医者から休養をすすめられるはめにおちいってしまった。  うち続く過労で倒れたのは、私だけではなかった。私の右腕である曽根君もまた、休養をすすめられ、一ヵ月ほど休むことになった。私も休まねばならない体だったが、当面の最大問題である雷電の基礎設計を終わってからにしなければならない。主要な部分の構造図を描き、各部品の製作図面を描くまでになったところで、あとは別の人にやってもらおうと思った。  医者の勧めを無視して、これ以上体をこわしてはかえって会社にも海軍にも迷惑がかかる。こう考えて私は、医者の勧めどおり、休ませてもらうことにした。部長のはからいで、十試艦攻の設計主務者をつとめ、そのころドイツのハインケル社への派遣から帰ってきた、二年後輩の|高《たか》|橋《はし》|巳《み》|治《じ》|郎《ろう》技師が、設計主任をやってくれることになった。  九月上旬、そのための事務引きつぎを終え、曽根技師が出勤しはじめるのと交代に、私は休養を許され、十月いっぱいを、久しぶりに母のいる群馬県の生家で、のんびりと過ごした。  私はよく散歩に出かけ、夜はぐっすり眠った。故郷の山河は美しかった。信州との|境《さかい》にあった|神《こう》|津《づ》牧場から軽井沢へハイキングしたとき、海抜一千メートルあたりでは、すでにぼつぼつ紅葉がはじまりかけていた。仕事も、険悪な国際情勢も、どこかよその世界のできごとに感じられるような日々が続いた。  しかし、ラジオや新聞は、刻々と非常事態に追いつめられつつある日本の国情を伝えていた。そして十月十六日、アメリカとの関係を打開しようと必死の交渉を続けていた近衛内閣が総辞職し、かわって陸軍大臣・東条英機を首班とする新内閣が成立した。私は老母とこのニュースを聞きながら、「いよいよ日米開戦はさけられないのかな」という感じがした。  十月末、名古屋の自宅に帰ってみると、会社にはまだ出なかったのだが、なんだか工場の雰囲気内にもどったような気がして、会社の仕事を忘れて毎日を過ごすことはできなくなった。  こうして会社の仕事を気にしながら、自宅でぶらぶらしているうちに、十二月八日の朝がきたのである。     とまどいから勝利の感激へ 「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」  昭和十六年十二月八日午前六時、とつじょとして暁の夢を破ったこの臨時ラジオ放送は、全国民を驚かせた。私もこのニュースを聞いたが、はじめは「まさか」と思った。しかし、その後アナウンサーが読んだ天皇の沈痛な「|天《てん》|佑《ゆう》を保有し……」の|詔勅《しょうちょく》を聞いて、これはたいへんなことになったと思った。そして、国民の一人として、複雑な不安と緊張感にひたった。  私は、アメリカの地の利と富強ぶり、そして、ずばぬけた工業力と航空技術をふだんからよく知りぬいていた。また、そのアメリカと戦う飛行機を作る立場にあるだけに、日米の兵力の差、とくに補給力における圧倒的な差があること、わがほうの原料物資はこれから占領する地域に頼る弱味があることなどがすぐさま頭に浮かんできた。私にはやはり、早く終わればともかく、戦争が長びけば長びくだけ、日本にとって不利だとの悲観的な予想しかできなかった。だが、すでに|骰子《さ い》は投げられたのだ。戦闘はまず、西および南太平洋上での両国の海軍航空隊機動部隊の衝突と、マレー半島、シンガポール、フィリピン周辺での陸上戦、海上戦、航空戦ではじまるだろう、と私は考えた。  海軍航空隊は、零戦と艦攻、艦爆とのコンビ、零戦と陸攻とのコンビを主力として戦うつもりだろうが、航空先進国を誇る米・英が相手では、中国大陸でのような一方的勝利は望むべくもない。零戦は、二一型を主としてすでに海軍に五百二十機ほど納入されていたが、大陸に駐留するものや内地に配備されたもの、修理中のものなどを除くと、すぐ外戦に出動できる状態の零戦は、三百数十機にすぎないはずだ。これらをいま述べた各所に配るとすると、どこもたいした数にはならない。そのころ海軍のパイロットに聞いたところによると、緒戦においては零戦一機で敵の戦闘機二機から五機に対抗できると考えられ、母艦に搭載する機種の数の割合にも、その考え方があらわれているという。しかし、攻撃機、爆撃機のほうはそうはいかないだろう。二、三回の出撃のあとには、そうとうの数が使用不能になるのではなかろうかと思われた。  私のこのような不安をうち砕くように、翌日から新聞、ラジオは緒戦の大勝利を伝えはじめた。まず報じられたのは、|真《しん》|珠《じゅ》|湾《わん》攻撃とフィリピン空襲である。当時の新聞を開いてみると、「ハワイ・フィリピンに|赫《かつ》|々《かく》たる大戦果」というような大きな横見出しのもとで、この二つの大勝利により、アメリカ海軍は、致命的な|深《ふか》|傷《で》を負ったという報道がなされている。だが、私がもっとも知りたかった零戦の戦いぶりについては、どこからも情報がはいってこなかった。 「あれだけの大勝利なのだから、零戦もきっと大活躍をしているにちがいない」  私としては、こう想像しているよりほかなかった。  戦後明らかにされたこの真珠湾攻撃の詳細と零戦の戦いぶりについては、あまりにも多くのことが知られている。かいつまんで記せば、ハワイ時間で十二月七日の朝まだき、海軍機動部隊の六隻の母艦から、三百五十三機の零戦、九九艦爆、九七艦攻が飛びたち、真珠湾にいたアメリカ太平洋艦隊の空母を除く主力艦と軍用機約二百三十機を|葬《ほうむ》り去った。しかし、このとき空母が一隻も港内にいず、撃ちもらしたことは、のちに大きなわざわいを残した。この作戦での味方の損失は、零戦九機、九九艦爆十五機、九七艦攻五機、搭乗員五十五名とわずかなものだった。真珠湾攻撃と零戦に関して、アメリカの著名な航空記者デヴィッド・A・アンダーソンは、航空雑誌「エアー・トレールズ」の一九四九年四月号につぎのように書いている。 [#ここから1字下げ]  一九四一年十二月の第一日曜日の朝、真珠湾の怒り立った空に小形のほっそりした灰色の戦闘機が乱舞した。専門の見張員も、その形を見るのははじめてだった。  日本が旧式の複葉機や角張った単葉機を廃止し、この古今にたぐいなき最優秀の飛行機の一つを、まったく極秘裏に設計、生産、使用していることを、世界はこの日はじめて知った。これこそ三菱の零戦で、のちに|Zeke《ジーク》と|綽《あだ》|名《な》された第二次大戦最大の謎の飛行機だった。 [#ここで字下げ終わり]     P‐40、P‐36を問題とせず  真珠湾攻撃は、全体的には大成功に終わったが、零戦としては、問題にならないほど少数の十機ほどの戦闘機と戦い、地上機を銃撃したぐらいで、持てる力を十分に生かした戦いとは言えなかった。零戦が最初に真にその本領を発揮したのは、むしろ、フィリピンにおいてであった。  台湾南部の海軍基地から、フィリピンでの米軍の二大航空基地であるルソン島のクラークフィールドと西岸イバまでは約八百三十キロ、首都マニラ郊外のニコラスフィールドまでは約九百三十キロもあり、そのコースは、大部分洋上である。この二大基地への空襲は、当時、世界の常識からみて、|掩《えん》|護《ご》戦闘機の能力をはるかに越えたものだった。そのうえ、真珠湾攻撃開始後に行動を起こさなければならない。真珠湾奇襲の報を受け、手ぐすねひいて待ちかまえているアメリカ空軍と交戦することになり、空戦は長びく恐れがある。こういうもろもろの問題を乗り越えるだけの航続性能を発揮できなければ、たとえ攻撃自体は成功しても、帰りに飛行機もろとも搭乗員まで失う危険があった。  つまり、この作戦の成否は、掩護戦闘機である零戦の航続性能いかんにかかっていたのである。逆に言えば、長大な航続力をもつ零戦なしには、この作戦は不可能だった。海軍司令部も、連合艦隊司令部も、零戦には絶大な信頼感をもっていたにもかかわらず、小型空母を三隻準備するほど、台湾とフィリピンの間は離れていたのである。  だが、けっきょく母艦を使うのはとりやめになり、そのかわり、航空技術|廠《しょう》からエンジンのエキスパートが送られ、巡航時間を延ばすための努力がかさねられた。その結果、増設タンクを装備して、敵地で三十分以上の全力空戦と六時間を越える巡航ができるようになった。  こうして、零戦隊は全機、台南と高雄の基地から発進、八百三十キロを一気に飛んで敵航空基地上空にいたった。もはや、ルソン島の大半は、一段と航続性能を増した台湾基地の零戦の制空下にはいったのである。そして、新郷大尉、横山大尉の率いる零戦隊に掩護された陸攻は思いのままに、クラークフィールド、イバを攻撃し、いならぶP‐40戦闘機や、“空の要塞”の綽名をもつB‐17四発爆撃機などのほとんどを壊滅させた。  このとき、零戦と空中戦をくり広げたのは、P‐36、P‐40などの戦闘機だった。  私は、この二つの戦闘機、P‐40、P‐36についてはすでに戦前から知っていたが、零戦にとって大した敵だとは考えられなかった。零戦にくらべて重いから、急降下速度だけはまさっており、最高速度は同等だが、その他の性能は、すべて劣っていた。空戦性能の差はとくに明確だった。身をひるがえして急降下で逃げようとしても、小回りのきく零戦はすぐその後ろについて、銃弾を浴びせることができた。しかも、このころは、P‐40、P‐36の両機とも、まだ燃料タンクに防弾用の|自動洩れ止め《セルフ・シーリング》装備をしておらず、鋼板で防いでいるだけであった。これなら、零戦のもつ強力な二十ミリ機銃によってかんたんに、炎上させることができた。  事実、アメリカ側の戦果の発表によれば、初日のこの渡洋作戦で、フィリピン方面にあった米陸軍航空兵力百六十機の三分の一以上に当たる約六十機が、撃墜または使用不能に陥った。日本が払った代償は、零戦三機の未帰還に過ぎなかった。  米軍機は翌日、大々的な海上哨戒飛行を行い、日本の母艦群を捜索したという。零戦を飛び立たせた母艦が、きっと近くにいると考えたからであろう。彼らには、日本の戦闘機隊が台湾から発進し、八百三十キロを一気に飛んできたとは想像もできなかったにちがいない。  また十二月十日、ニコルスフィールド上空で、横山大尉の率いる零戦隊三十四機の示した活躍ぶりはとくにめざましいものであった。二倍ちかい数のP‐40、P‐36と四十分以上におよぶ激しい格闘戦を展開し、四十四機の米戦闘機を撃墜、損害は零戦一機だけだった。もはや、P‐40、P‐36は、たとえ二倍、三倍の数で対抗したとしても、まったく零戦の敵ではなかったのだ。  この日は、戦闘機との格闘戦のほかに、零戦にとって特記すべき戦果があった。台南航空隊零戦隊の|坂《さか》|井《い》|三《さぶ》|郎《ろう》小隊が、ルソン島の西岸ビガン沖で、高度約八千メートルを飛行するB‐17一機を発見し、これに二十ミリ機銃の集中砲火を浴びせて撃墜したのである。慎重な坂井|兵曹長《へいそうちょう》は、このとき、撃墜不確実と報告したが、戦後発表された米軍の記録によれば、じつはこれがヨーロッパ戦線も含めてB‐17の撃墜第一号だったのである。  このB‐17は、“空の要塞”の異名をもつ米陸軍の大型爆撃機で、零戦と対決する以前は、どんな戦闘機も寄せつけず、ヨーロッパ戦線をわがもの顔に荒らしまわっていた。約一千四百キロと推定される行動半径をもち、自動洩れ止めタンクと死角の少ない防御銃火、大きな搭載量を武器に、勇敢で|執《しつ》|拗《よう》な行動を続けていた。このころ、零戦を先頭とする海軍航空部隊の前に現われたアメリカ側の唯一のホープがこれだった。しかし、坂井兵曹長がB‐17を撃墜したのをはじめとして、零戦の老練なパイロットたちは、防御砲火のわずかな死角を|縫《ぬ》って十分に近づき、操縦者を狙うか、タンクに多くの弾丸を撃ちこむか、または多くの零戦でこれをかこみ満身|創《そう》|痍《い》にすることによって、かなりの数のB‐17を撃墜している。  このフィリピン進攻により、零戦は|片《かた》|途《みち》九百三十キロにおよぶ洋上を往復し、昭和十五年に中国戦線でちらりと片鱗を見せた、その長大な航続力を、世界に示すと同時に、敵戦闘機や爆撃機をかんたんに撃墜できるたぐいなき空戦性能をはっきりと示したのであった。     零戦を見たらまず逃げろ  この二つの大勝利につづいて十一日には、マレー沖海戦での大勝利も報じられた。仏印南部の基地を飛び立った八十五機の陸攻隊は、イギリスの新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈した。この戦闘は、航空機と軍艦の戦いについて貴重な教訓を残した。イギリス艦隊の完敗の理由は、まさに戦闘機を一機も護衛につけていなかったからなのだ。しかし、日本の海軍にもこの戦いの提示した貴重な教訓がまだ十分にはわかっていなかったようだ。  というのは、翌日のウェーキ島攻略作戦で、日本海軍はマレー沖海戦でのイギリスの|轍《てつ》を踏んだのである。つまり、軽巡洋艦や、駆逐艦などから成るウェーキ島攻略部隊は、掩護戦闘機をともなわなかったため、砲台の射撃とわずか四機のアメリカの艦上戦闘機・グラマンF4Fワイルドキャットの攻撃をうけて、軽巡洋艦、駆逐艦各一隻は沈没し、その他は傷つき、さんざんな敗北を|喫《きつ》したのだ。その後やっと、真珠湾攻撃の帰途にあった機動部隊から派遣された零戦隊、艦攻隊によりはじめてウェーキ島は制圧できた。  このグラマンF4Fは、艦上戦闘機らしい性格では零戦とよく似ており、当時の私にも、零戦にとって当面の敵はこのF4Fだと|目《もく》された。しかも、数字にあらわれた性能では、F4Fのほうが馬力と急降下速度においてまさっており、アメリカ海軍がもっとも力を入れて生産している代表的戦闘機であった。しかし、零戦のもつすぐれた総合能力、とりわけ空戦性能と火力をもってすれば、このF4Fにもぜったいに勝てる自信がわれわれにはあった。わが戦闘機パイロットたちの体験談によれば、あらゆる性能で零戦がまさり、どんな高度での空戦でも、零戦の特長が百パーセント発揮され、遠征した場合でも、同数ならばかならず勝つことができ、相手が二倍、三倍の数になってはじめて引き分けか苦戦になったという。  このため、 「零戦にはなにか神秘的な性能がある」  と、アメリカのパイロットたちには思えたらしい。のちに零戦がF4Fに|見《げん》|参《ざん》する機会が多くなると、F4Fのパイロットたちには、 「退避してよいのは、雷雨にあったときと、ゼロに|逢《あ》ったとき。ゼロとはぜったいに一対一の格闘戦をするな」  という指令が出されていたという。  F4Fが零戦の圧倒的な強さのまえにかんたんに敗れ去ってから、敵機は零戦を恐れてその後姿を現わさず、ウェーキ島周辺の制空権は、わが手に帰した。だが緒戦において、わが海軍が経験した唯一の苦戦から得た戦訓も、続く戦勝に酔って、いつとはなく忘れられていった。つぎつぎに報道される勝利にようやく不安感から解放されて、みな勝利への興奮に酔っているようだった。  私は、体の調子が多少よくなったので、十二月中旬から、変則的な出勤をはじめた。ひさしぶりに出た会社には、勝敗の鍵を握る第一線機を作る工場らしく、張りつめた空気がみなぎっていた。また、自分たちが作って毎日送り出す飛行機が、十日もたつと戦線で、ラジオニュースになる活躍をするのだとの実感に、社員の一人一人が胸をふくらませているようだった。戦争がはじまるまえよりも、工場の人員も増し、このころは、一日平均二機の零戦が作られるようになっていた。  設計室でも、拍子抜けするほどの一方的な勝ちいくさが話題になった。そしてはじめのころは、よく考えてみると、真珠湾奇襲一発でアメリカ太平洋艦隊がしばらく活動不能に陥った結果であり、いわば鬼のいぬまの洗濯なのだから、安心するにはまだ早いという結論になった。だが、そのうちにフィリピン、インドシナ、マレー方面作戦の電撃的進展によって、楽観的ムードが設計室をもおおいはじめた。  私も米・英の抵抗はもっと激しいだろうと予想し、日本はこんなにも戦えるとは思っていなかったので、あいつぐ勝利に、もしかすればという気になってきた。最後まで戦えば日本は負けるだろうという最初の印象は変わらなかったが、いい時期に停戦ができれば、あまりひどい負け方はしないでもすむのではないかと思ったほどである。  ところが、こうした現場の空気を味わったのもつかのま、医師のとった乱暴な検診法のため、一週間後に胸と背に激痛を覚え、私はまたもや休養をとらなければならぬはめに陥った。こんどは家人の勧めで、年末から二ヵ月ほど鎌倉の|材《ざい》|木《もく》|座《ざ》にあった親戚の家で静養することにした。ここならば東京、横須賀も近く、戦局の動きも、飛行機の生産や実験も身近に感じていられるだろう、というのが私の考えだった。鎌倉は、名古屋よりも暖かかった。私は、十一月に故郷で送ったのと同じような散歩と睡眠にあけくれする日々を過ごすことに努めた。十月の休暇のときとは違って、すでに戦争もはじまっており、その緊張感からどうしても仕事のことを思い出さずにはいられなかったが、いまは早く元気になるほうが先だと考えて、仕事への思いはなるべく押し殺すことにしていたのである。  この静養期間中、知人が持ってきてくれた雑誌「|大《たい》|洋《よう》」のなかに、私はうれしい記事を見つけた。元連合艦隊司令長官・|高《たか》|橋《はし》|三《さん》|吉《きち》大将が、三菱の新鋭戦闘機が、わが戦勝の中核であること、三菱がこの新戦闘機のまえに作った九六艦戦が、すでにアメリカ、イギリス、ソ連の同時代の戦闘機を押えており、わが航空技術は世界の先進国と肩をならべたことを証明した、というようなことを書いていたのである。     五十機撃墜、損害は三機  私が、このような鎌倉での毎日をおくっているあいだも、零戦はつぎつぎにめざましい戦果をあげていた。零戦のみごとな先導で成功したフィリピン占領以来、陸海軍の地上部隊は、南へ南へと進出し、それにともなって、海軍航空部隊の基地も、つぎつぎに南へ移動した。とくに、台南航空隊の二十四機の零戦隊は、二千二百キロを|翔破《しょうは》して、フィリピンの西南スル列島中のホロ島基地へ進出した。これもまた、単発単座戦闘機の編隊行動としては、破天荒の離れ業だった。  これ以後も、日本軍は、破竹の勢いで進撃を続け、昭和十七年の一月にソロモン群島のニューブリテン島、ニューアイルランド島に上陸、また二月には、ボルネオ本島を占領した。  そして、同じく二月三日の、ジャワ本島上空では、フィリピン進攻以来、ひさびさの大空戦が展開され、八百数十キロの海をわたって遠征した六十余機の零戦は、P‐40、P‐36、ブルースター・バッファローなどからなる百機近い戦闘機を相手にして、五十機を撃墜、損害は三機だけという大戦果をあげた。P‐40、P‐36についてはさきに述べたが、このバッファローも、これらと大同小異であり、零戦にとっては、まるで赤子の手をひねるような相手であった。  こうして、同年三月上旬のジャワ作戦終了までの海軍の南方基地航空部隊による総合戦果は、撃墜、撃破確実のもの五百六十五機、うち零戦によるもの四百七十一機にいたった。  内地では、連日、ラジオで、勇ましい軍艦マーチとともに、あいつぐ戦勝が伝えられた。東条首相は、ラジオ放送のたびに、「皇軍は各地で連戦連勝、まことにご同慶のいたり」という意味の言葉をきまり文句のように言った。  しかし、いよいよ、国内でも戦時態勢が本格的となり、めだって生活物資が窮屈になってきた。鎌倉での静養期間を終えた私は、二月中旬からまた会社に出るようになったが、すでに暖房用のスチームは止められ、計算に使う用紙などは目に見えて粗悪なものとなっていた。それでも設計室などは|薪《まき》のストーブがたかれていたが、工場ではストーブもなく、冷えびえとしたコンクリートの床の上で、飛行機をつくるための工事の|鎚《つち》|音《おと》ばかりが、活気にみちて響いていた。  設計の作業については、高橋技師をはじめとする設計チームの奮闘のかいあって、雷電の製作図面は完成まであと一歩というところまで進行していた。雷電の試作一号機は、二月末に完成し、三月には霞ケ浦の飛行場で試験飛行をすることになるが、私はもうこの十四試については、高橋技師と曽根技師にほとんどまかせて、相談を受ける程度にしていた。というのは、四月中旬から、零戦の直接の後継となるべき十七試艦戦「烈風」の設計研究がはじまることになっており、私はその準備にかかっていたからである。     「まるで、演習のごとし」  その後、太平洋戦争の中盤にいたる零戦の活躍ぶりは、緒戦をしのぐはなばなしいものであった。そのすべてをここに記すことはできないが、一例をあげれば、同年四月、インド洋作戦において、イギリスの新鋭戦闘機スピットファイアやハリケーンと闘った零戦の活躍ぶりである。  ハリケーンはやや時代おくれの感があったが、スピットファイアは、速度をすこし犠牲にしても空戦性能をよくしよう、という日本と同じ方針で設計していたイギリスの主力戦闘機だった。そしてこのスピットファイアは、有名なバトル・オブ・ブリテンで二倍以上のドイツ戦闘機メッサーシュミットMe‐109を打ち負かし、この方針の正しいことを証明していた。ともに空戦性能を誇る零戦とスピットファイアだったが、速度においては、零戦より五割がた馬力の多い水冷のエンジンをつけていただけあって、たしかにスピットファイアのほうがまさっていた。また、零戦には、スピットファイアにない長航続距離をもつ掩護機としての重荷も背負わされていた。  しかし、戦いはあっけないほどの零戦の勝利であった。小回りが|利《き》くということで定評のあったスピットファイアより、零戦はさらに小回りが利いた。長航続距離という重荷を背負いながら、零戦のほうがはるかに身軽だった。たとえば、コロンボの上空では零戦三十六機が、スピットファイア、ハリケーンの数十機と戦ったが、スピットファイア十七機、ハリケーン二十一機を撃墜し、味方は零戦一機が撃墜されただけだった。これを手はじめに、十日間にわたるインド洋作戦で、零戦はスピットファイア、ハリケーンなどを相手に空の王者の名をほしいままにした。戦ってみると、敵味方の実力に差がありすぎて、「まるで演習のごとし」とさえ言われた。  このように零戦が撃墜撃破した数は、当時の母艦部隊、基地部隊が敵機に与えた全損害の三分の二ちかくを占めていた。また、直接に零戦によらない戦果でも、零戦によって制空権を確保したあとの爆撃機、雷撃機の戦果などは、間接的には零戦に負っているところが大きい。  太平洋戦争の初期、わが海軍、および陸軍の南方方面であげえた海上、陸上、空中の戦果の大半が、直接間接に零戦の功に帰すべきだといわれているのは、こういう戦果の|故《ゆえ》である。  当時の私は、零戦が海軍部隊の中核となって戦っているだろうとは想像していたが、全体的に見てこれほど高い評価を受けるほどの殊勲を立てているとは思っていなかった。だから、のちになって、零戦に与えられたこの高い評価を聞いたときは、驚きもしたし、よりいっそううれしかった。設計担当者のわれわれでさえ、その働きをほとんど知ることができなかったくらいだから、一般の国民が、零戦の名まえすら知らなかったのも無理はない。むしろ零戦の優秀性は、当時の敵国側のほうがよく知っていたようだ。しかもそれは軍の関係者だけでなく、社会の隅々まで浸透していたようだった。  その一例として、当時の三菱商事の社長服部一郎氏から寄せられた文章をここに要約して書いてみよう。  太平洋戦争がはじまった直後、オーストラリア、ニュージーランド、ジャワなどに分散していた三千余名の日本人は、オーストラリアの三地区に別れてキャンプに収容された。このころオーストラリア空軍は、緒戦から日がたつにつれ威力を増していく零戦のために、手も足も出なくなっていた。議会では毎日のように、空軍を非難する演説がなされ、新聞は筆をそろえて無能な空軍は廃止したほうがましだとまで書いていたという。  キャンプ内でも、かなり自由に新聞は読めたので、抑留者たちは戦争の進行をある程度知ることができた。なかでも零戦に関する記事は、彼らにとっては無上の力づけとなっていた。  とくに三菱商事の四人の社員は、はからずも零戦のおかげで、たいへん好遇を受け、肩身の広い思いをした。というのは、キャンプの監督将校たちは、三菱重工と三菱商事の区別をせず、ただ「三菱」という名まえだけで、 「きみたちは、あの強いゼロ・ファイターを製作している三菱の社員だろう」  という尊敬のまなざしで接し、敵ながらあっぱれだといわんばかりに、精神的な礼遇をしてくれたからであった。そこには、報復的な憎悪感はまったく見られなかったという。  翌十七年八月になって、抑留者を日本に送り返すことになったときも、この好遇は続いた。送還船でも、待遇がよく、支店長級でもなかなか入れてもらえなかったキャビンへ四人とも入れてもらい、ハッチでハンモックに寝かされ、まずい料理を食べさせられている他の人たちには悪いとは思いながらも、ゆうゆうとベッドに寝、うまい料理を食べ、快適な船旅を送った。そのあいだずっと、彼らは零戦のありがたさを感じるとともに、高度の技術に対しては謙虚な気持ちで敬意を払うというオーストラリア人のおおらかな態度に、頭を下げていたという。  このことを引き揚げた支店長らから聞かれた服部氏は、すっかり感激し、三菱重工の幹部を訪ねてくわしく報告されたそうである。この文は、私が以前に|奥《おく》|宮《みや》|正《まさ》|武《たけ》氏とともに出した本を読んで書かれたものだが、そのなかにもう一つおもしろい例をあげておられるので紹介してみよう。  戦後、彼のところを訪れたアメリカ通のある日本婦人が、私たちの共著を拾い読みしてつぎのように言ったという。 「終戦直後、自分が読んだアメリカの小説や雑誌のなかに、“若い女を|口《く》|説《ど》き落とすことはそんなにむずかしくないが、Zero(ゼロ)を落とすことは容易ではない”とか、“あの女はZeroよりも手ごわい”とかいう文句に、ときどき出会ったが、いままでどういう意味かよくわからなかった。ところが、きょうこのご本を拝見して、Zeroが堀越氏を主任として三菱で設計された日本の戦闘機の名まえであることがわかって、こんな喜ばしいことはない」  これなどは、当時、零戦が世界では有名であり、日本では無名であったことのいい例だと思う。     はじめて経験した空襲  ますます盛りあがってきた戦勝ムードのなかで、私は、昭和十七年四月から零戦の後継機、烈風の基礎設計にかかりきりになった。烈風の設計でも、私はとうぜん飛躍的に大馬力のエンジンを使わないかぎり、これから出てくるアメリカの新鋭戦闘機とわたりあうことはできないと考えたが、私の選ぼうとしていた新しいエンジンは、海軍から見れば開発が十分に進んでおらず、許可されなかった。また、零戦のエンジンを大馬力の金星に換える提案を非公式に受けたが、こちらは、設計の深刻な人手不足で、この適切な提案に応じることが不可能だった。  こうして、私が悪戦苦闘を続けていた昭和十七年四月十八日、あれはたしか、午後一時ごろだったと思う。どこかで、低空を飛ぶ飛行機の爆音らしいものが聞こえたかと思うと、設計室の中が騒然となり、みなが窓ぎわに走り寄るのが見えた。そのとたん、星のマークをつけた双発中型爆撃機が一機、超低空で工場の上を北から南に通りすぎた。キラキラと光るものが落とされ、 「敵機だ!」  みなが口ぐちに叫んで窓から身を乗り出すと、工場の上に|轟《ごう》|然《ぜん》と爆発音が起こると同時に黒煙が上がるのが見えた。襲ったのはアメリカ陸軍の爆撃機B‐25、落としたのは|焼夷弾《しょういだん》だった。工場そのものの被害は大したことはなかったが、五人の工員が即死し、三十人もの重軽傷者が出た。まもなく、東京、関西方面も同様にB‐25の空襲を受けたことが知らされた。これはひそかに日本にしのび寄っていた空母から飛び立ったドゥーリトル中佐に率いられたB‐25十六機のしわざだったが、日本にとって、そして、もちろん私にとっても、はじめての空襲体験だった。戦いはこんなにまでわれわれの身近にせまっているのか——。私はこの戦いの前途に暗さを感じないわけにはいかなかった。  しかし、この空襲はそれほど大騒ぎされることもなく、以前に増して熱にうかされたような勝利の報道がなされつづけた。そして、本格的な夏がじわじわとしのびよってきていた六月十一日、連日の報道のなかでも、ひときわ目立つ大海戦の報道がなされた。その海戦こそ、太平洋戦争の転回点となったミッドウェー海戦であった。  当時の新聞には、「東太平洋の敵根拠地を強襲」といった見出しが一面のトップの最上段全体にわたって掲げられ、同時に行われたアリューシャン列島攻撃の記事とともに、わが軍のかっかくたる戦果が報じられた。  このときの新聞記事によれば、ミッドウェー海戦における戦果は、アメリカの航空母艦二隻を撃沈し、飛行機約百二十機を撃墜したのに対し、日本側の損害は、航空母艦一隻喪失、一隻大破、巡洋艦一隻大破、未帰還飛行機三十五機にすぎないというようなものであった。これだけの報道から、日本側の負け|戦《いく》さを見抜くことのできた国民がほとんどいなかったとしても、それはむりからぬことであったろう。だが、戦後明らかにされた事実は、まったく逆だった。  アメリカ側の損害は、航空母艦一隻、飛行機百五十機、人員三百七人などに対し、日本側の損害は、主力航空母艦四隻、飛行機三百二十二機、人員三千五百人などであった。この戦いが、なぜこのように惨憺たる結果になってしまったのかについては、作戦上、索敵上の手ちがいや不運がつきまとったことなど多くのことが語られているから、ここでは述べない。  しかし、この不運ともいえる負け戦さのなかにあって、いや、そうだったからこそなおさら、零戦はいままでにまさる|獅《し》|子《し》|奮《ふん》|迅《じん》の戦いぶりを示した。ミッドウェー島への攻撃隊を掩護して行った三十六機の零戦は、上空で待ちかまえていたF4Fやバッファローからわが攻撃隊を理想的に掩護したうえ、敵戦闘機約五十機を撃墜して完璧な制空をやってのけた。その間に、ミッドウェーから発進して二手にわかれてわが空母を襲った敵機も、空母に残っていた零戦と各艦の砲火によってほとんど撃墜され、味方には一発の被弾もなかった。そのあと、ミッドウェーから帰った攻撃隊を空母上に収容している最中に、こんどは敵空母から飛び立った雷撃機が来襲した。零戦は、残り少ない燃料をタンクの底まで振りしぼってバタバタと敵機を撃墜、あるいは、敵機の隙を見てすばやく着艦し、燃料を積みこむのももどかしく、回避運動でかたむいている空母の甲板から巧妙に飛び立って、敵機のほとんど全部、約七十機を撃墜し、味方には被弾がなかった。  しかし、この戦いで運命の神が日本軍を見はなしていたことは、最後の瞬間になって明らかになった。ミッドウェーから帰った攻撃隊の収容を終わり、作戦上の手ちがいで遅れていた第二次攻撃隊を甲板にならべたとき、とつじょ雲間から急降下してきた敵空母の艦上爆撃機によって、四隻の空母がつぎつぎに被弾、火災を起こし、戦いの|帰《き》|趨《すう》はあっけなくきまった。この瞬間に空中にいた少数の零戦も、各艦の高射砲も、敵機を発見して十分応戦するだけの暇なく、また艦上にあった零戦も離艦できなかったのである。このように、零戦自体としては、与えられた条件のもとで十分に活躍した。しかし、この作戦全体が最初から、どうしようもない不利な形勢におかれてしまっていた——そこに私は零戦の、そして日本海軍の悲劇を感じる。  いっぽう、これと同時に行われ、ミッドウェーの大敗北を隠すかのように、その成功が必要以上に大きく報道されたアリューシャン作戦でも、のちの零戦にとって重大な不幸の種がまかれていた。アリューシャン作戦に参加し、無人島に不時着したほとんど無傷の零戦一機を、アメリカが手に入れたのである。零戦の運命を大きく変えることになるこの事件に、当時の日本側では、だれ一人として気づいたものはいなかった。アメリカは、真珠湾攻撃以来、落ちた零戦の切れはしを寄せ集めてまでも、謎の飛行機といわれる零戦の秘密を解き明かそうとしていた。そして、この完全な零戦に飛行試験を含むあらゆる角度からの調査をほどこし、その長所と短所を完全に知ることができた。調査の結果は、新戦闘機の設計のうえでも、零戦との戦術のうえでも、ひじょうに大きな役割を果たすことになった。     打倒零戦への動き  この年の八月、名古屋航空機製作所の同僚|上条《かみじょう》技師が、日米抑留者交換船でニューヨークから帰り、私はいくらかアメリカの実情を知ることができた。彼は、軍の情報部、三菱重工本店の幹部、そしてこの名古屋航空機製作所と、三度にもわたってアメリカのようすを報告するので、話が整然とできるようになったと冗談めかしたことを言いながら、つぎのような話をしてくれた。  彼のいた収容所では、自由に新聞が読めた。それには、零戦は圧倒的に強く、零戦によって直接失われるパイロットと飛行機、それに零戦に掩護された攻撃機によるアメリカ軍の損害は|重大《シーリヤス》であると書かれていた。彼は、アメリカ軍の飛行機の天文学的数字ともいえるほどの増産計画と零戦を打倒するためのいくつもの新戦闘機の開発が、着々と進められているようすだとつけくわえた。  当時、ミッドウェーの大敗北は隠されていたので、国民のあいだには緒戦の大勝利のときの戦勝気分が続いており、ややもすれば戦いの前途を楽観する見方が出かかっていた。私も半信半疑ながら、この戦勝気分に同調していた。しかし、上条技師の話を聞いて、冷水を浴びせられるような思いをし、開戦前後の不安感を呼び起こされた。そのいっぽうで、零戦の威力がアメリカ人によく知られていることも知った。零戦打倒のための新計画が進んでいるということだから、零戦もいよいよ苦闘を強いられることになるのだろうと、上条技師の話を聞きながら、私ははるかな南の空に思いを|馳《は》せていた。  八月中旬、新聞は大きな見出しで南太平洋ソロモン群島付近での海・空戦を報じた。当時私は知らなかったが、これはアメリカ軍が総反撃の第一歩として、ガダルカナル島を奪い返すための作戦のはじまりであった。  この報道があってまもなく、私は航空技術廠の会議で、またもや零戦の改造を求められた。こんどの要求は、まえに二速過給器付きエンジンに換え、翼端を左右五十センチずつ切り落としたため低下した航続力と格闘性能を回復するために、外翼内に巡航で一時間分の燃料タンクを増設し、翼幅をもとの十二メートルにもどすというものだった。このころ、ラバウルにいた零戦隊は、ガダルカナル攻撃隊を掩護して、連日ラバウル飛行場から飛び立っていたが、ラバウルとガダルカナルの距離が一千五十キロとあまりにも離れており、さしもの航続力を誇る零戦にとってもいささか苦しい戦いとなっていた。この苦戦を乗り切るために出されたのが、こんどの改造要求だったのである。私はこの要求内容を聞き、 「零戦もそうとう酷使されているな。航続力については、残念ながらこのへんがいっぱいいっぱいというところだろう」  と感じていた。この型が、A6M3、二二型と呼ばれる機体である。  ソロモン海戦に続いて、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦と、ガダルカナル争奪のための日米の激しい戦いは、その後も新聞をにぎわしていたが、私は烈風の設計に忙しく、ともすれば零戦を忘れがちであった。私の希望するエンジンとは違っていたが、ともかくエンジンも決まり、烈風の設計も本格的な段階にはいっていたからである。  そのころアメリカでは、アリューシャンで手に入れた零戦によって、徹底的に零戦対策を研究し、ふつうに戦ったのでは勝ち目のなかったF4Fにソロモン海戦から新しい戦法を採用するようになった。それは、「二機組みになって戦うのでなければ零戦に立ち向かうな。二機が組みになって、急降下で一撃を加え、格闘に引きこまれそうになったら、二機が交差するような飛び方でおたがいの後方を掩護し、零戦の追尾を絶ち切れ。いかなる場合でも、急降下はほどほどでやめ、垂直面内の戦闘に圧倒的に強い零戦に追尾の余裕を与えぬ高度にとどめ、つぎの攻撃のチャンスを狙え」という念のいったものだった。これが有名な「サッチの|機《はた》|織《お》り戦法」である。  また、昭和十七年秋から、アメリカはF4F以後はじめての新鋭機・ロッキードP‐38ライトニングをソロモン戦線に投入してきた。これは、単座双発双胴の高高度戦闘機で、零戦の三倍もの大馬力をもち、高空性能がすばらしく、最高速度も、急降下速度も零戦にまさっていた。  しかし、このような戦闘機のつねとして、旋回半径が大きく、低速になるにしたがって操縦性が悪くなった。そのため、空戦をいどんでくるかぎり、零戦はこれを容易に撃墜することができ、はじめのころは零戦のパイロットたちから“ペロ八”と綽名をつけられて軽蔑されたという。しかし、まもなく、P‐38の持つ高高度性能と急降下速度を最大限に活用し、高空から猛烈なスピードで急降下しながら爆撃機などを銃撃して“通り魔”のように飛び去ってしまうという「一撃離脱」の奇襲戦法を考え出すにおよんで、零戦も、これを早期に発見して用意しないかぎり、撃墜することはむずかしくなってきた。  さらに、昭和十八年の三月になると、単発戦闘機で最初に零戦の好敵手となったチャンスボートF4Uコルセアがソロモン戦線に投入された。逆ガル翼という独特な翼を持った戦闘機で、これも、零戦にくらべ、空戦性能、航続力、低速での操縦性、視界で劣るが、零戦の二倍近い大馬力をもち、最高速、急降下速度、火力でまさっていた。このような特性をもてば、とうぜんF4Fにやらせた新戦法を、さらに有効に生かすことができた。ただし、海軍の戦闘機でありながら、離着陸の距離を多く要し、また視界が悪かったため艦上では使いこなせなかった。陸上基地に事欠かぬ島伝い作戦が|採《と》られたからこそ活躍の舞台を得たのであった。  このようなアメリカ側の新戦法と新戦闘機の開発は、たしかに零戦対策として的を射ていた。零戦が、小馬力エンジンながら、そのたぐいなき空戦性能と航続力をうるために、犠牲とせざるをえなかった急降下速度と高高度性能、そして最高速度の盲点を看破していた。これほどまで徹底した戦法をとられた場合、いかに無敵の零戦といえども、それまでのように、バタバタと敵機を撃墜することは、かんたんにはできにくくなってきた。  このように続々と新鋭機を繰り出してくる敵に対して、わがほうは依然、零戦だけがそれを受けて立っていた。とうぜん、基地防空を引き受ける雷電の完成が切望されたが、エンジンの馬力不足や、設計の人手不足で、遅れに遅れていた。後継機が遅れるとなれば、この困難な戦局に対処する道は、零戦の性能をすこしでも高めて使う以外にはない。そこで、速度と急降下制限速度を上げるために、再度翼幅を十一メートルとし、従来からの集合式の排気管をやめて、排気を後方に高速で吹き出させるロケット排気管を採用した。その結果、最大速度は、この前の型より二十キロ以上もふえ時速五百六十五キロとなった。これが、零戦の各型のなかでも、もっとも多く生産された五二型である。ただこれに乗ったパイロットたちに聞くと、二二型より翼面積が少ないために空戦性能が低下したことは否めなかったらしい。  ガダルカナルをめぐる戦いには、この五二型の生産もまにあわず、けっきょく、九ヵ月にもおよぶこの戦いはアメリカ軍の設営力と補給力に圧倒され、日本軍の敗北に終わった。十八年二月に日本軍は、ガダルカナル島に生き残っていた一万数千人の将兵を撤収したが、新聞には、ガダルカナルからの「転進」であると書かれ、この敗北は国民には隠されていた。  海軍航空隊にとっては、ガダルカナル戦は|技《わざ》で勝って、力で負けた戦いだった。その間の消息を、|源田実《げんだみのる》氏は『海軍航空隊始末記』でつぎのように書いている。 [#ここから1字下げ]  開戦以来海軍の零戦隊は、海に陸に、むかうところ敵の|心《しん》|胆《たん》を寒からしめ、“ゼロ”の勇名は全世界に鳴り渡った。場合によっては、零戦の影を見ただけで敵機は|遁《とん》|走《そう》を開始した。  五百六十|浬《かいり》(約一千五十キロ)も離れているガダルカナル島上空に進撃したラバウル零戦隊は、同地上空を一時間も制圧するのが常であった。十七年十月下旬ガダルカナル島総攻撃のときも、わが戦闘機隊が同地上空に|在《あ》るかぎり、制空権は完全にわが方のものであったのだ。距離と機数の関係で、常時制圧ができなかったために、艦隊、輸送船団が損害をうけたが、これは零戦の能力によるものではなく、機数と、戦場の|如何《い か ん》によるものであったのである。 [#ここで字下げ終わり]  また、ただでさえ源田氏の言う機数、つまり兵力量の差が大きい日米航空戦を、日本はほとんど海軍機のみで戦い、アメリカは陸・海両軍機をうまく組み合わせて使ったところにも重大な問題があった。  そのうえ、これはもっとも重要なことだが、アメリカは、開戦とともに、率直に零戦の優位を認め、零戦から制空権を奪う新しい戦闘機と、日本国内の生産活動にとどめを刺す戦略爆撃機の完成に技術開発力を集中し、それ以外の中間的な機種を新しく開発するのを中止した形跡が歴然としていた。事実、戦闘機はさきにも述べてきたようにつぎつぎと新手がくり出され、戦略爆撃機もB‐17からB‐29にいたる飛躍的な開発が行われたのに対し、それ以外の単発の艦爆や艦攻、双発や四発の陸爆などは、緒戦に現われたものがそのまま使われていたのであった。  技術マンパワーのおとる日本では、新規開発にしても、現在使っている機体の改良にしても、アメリカの二倍の時間がかかると見なければならなかった。だから、日本こそ開戦と同時に、挙国一致の重点政策に切り換えるべきだったのに、開戦から二年たっても、航空機開発にはいぜん、総花主義が行われていたのである。対米開戦にはやった軍部や政治家に、総力戦的認識がもっとも不足していたように見えるのは、いったいどういうことなのだろう。  こうした技術政策のまずさが、はじめから終わりまで零戦に頼らざるをえない事態を招き、ひいては日本軍の決定的敗北に拍車をかけていった。     終章 昭和二十年八月十五日     新たなライバル  昭和十八年九月、しだいに不利となる戦局のなかで、なお健闘をつづけていた零戦の前に、ついに恐るべき新たなライバルが現れた。マーシャル群島の南にあるギルバート諸島マーカス島海戦から、アメリカ海軍の新戦闘機F6Fヘルキャットが登場してきたのである。  このF6Fは、零戦の二倍近い馬力のエンジンを積み、十二・七ミリ機銃を六|挺《ちょう》ももち、タンクに|自動洩れ止め式《セルフ・シーリング》の防弾をしているところなど、F4Uと同じであったが、違う点は、艦上戦闘機らしい広い面積の主翼をもち、速度はそれほどではないが、いままでのアメリカのどの新鋭機よりもすぐれた運動性をもっていることであった。  まともに零戦と戦える戦闘機がついにアメリカにも出現したのである。このF6Fに対するアメリカの力の入れ方はものすごく、「打倒零戦」のかけ声とともに、短期間の実用試験がすむかすまないうちに量産をいそぎ、大量に戦線へ投入しはじめた。  このF6Fの出現とともに、零戦にとっての文字どおりの苦闘が始まった。それはたんに、F6Fの性能がすぐれていたからというだけのものではなかった。むしろ、一対一の空中戦では、なお零戦のほうに勝味があった。しかし、その差がちぢまっていることは明白であり、量的な劣勢を質的な優勢ではねかえしていた従来の戦法にも限界が近づいていた。また、ミッドウェー、ガダルカナルとあいつぐ敗北によって、開戦前からの熟練した優秀なパイロットを何百人も失っていた。  こうした事態に対処するにはとうぜん、質的にさらにまさった新しい戦闘機をすみやかに戦線に投入するか、零戦の数をもっとふやすかして、アメリカ機との量的な差をなるべく少なくする必要がある。しかし、|雷《らい》|電《でん》も戦線参加にはまだかなりの歳月を要し、零戦の直接の後継機である烈風も候補エンジンの馬力と信頼性の不足、設計の人手不足などの障害によって、完成は遅れていた。開戦以来、はじめから日米の量的な差は明白だったが、いまや、質的にもせとぎわにきた感が強かった。戦いの決は空に移り、戦闘機によって制空権を握るか握らないかが、その下で行動する他の飛行機の性能いかんよりはるかに重要であるということは、日本がまっさきに世界に示したことではなかったか。それが、いまやかえって敵の手中のものになりつつあるということは、なんとしても残念だった。  こうして零戦は、アメリカが緒戦の主力戦闘機P‐40、F4Fを脇役にまわし、P‐38、F4U、F6Fとあいついで新型機を大量に第一線に送りはじめたのに対して、零戦はこれらのすべてを相手として孤軍奮闘を強いられた。  開戦以来、幾多の戦闘に参加した体で、なおも、うんかのごとく押し寄せる敵機のまっただ中に飛びこんで行く零戦の姿は、まさに悲壮そのものであった。F6Fの六挺も備えられた機銃から発射される雨のような銃弾を浴びせられ、われわれが丹精をこめて作り上げた零戦は、つぎつぎに遠い南方の|紺《こん》|碧《ぺき》の海に散っていった。     あいつぐ改造  このことを知る人たちはだれしも、「これではいけない。なんとかしなくては」と思ったであろう。たしかに、後継機の開発も思うにまかせない現状にあって、私の接する海軍側の人たちの顔にも、あせりが見えはじめた。当面、よりかんたんで効果を上げられる対策といえば、零戦の改造しかなかった。それも馬力の大きいエンジンへの積み換えなどの大改造は、設計人員を重点的に配分するよう決断しないかぎり、正式には発令できなかった。こうして、あわただしく零戦のこまかい改造があいついだ。二二型からくらべればそうとう速度が向上し、また空戦中の横転が速くなった五二型にも、途中から翼内タンクに自動消火装置がつけられた。その後、五二型甲では二十ミリ機銃の弾数を増し、毎分の発射弾数を上げた。五二型乙では、七・七ミリ機銃二挺を十三ミリ機銃一挺に換え、胴体内タンクにも自動消火装置、操縦席前方に防弾ガラスをつけた。五二型丙では、七・七ミリ機銃をやめて、翼内に十三ミリ機銃を二挺増し、ロケット弾四個をつめるようにした。さらに、操縦席後方に防弾甲板をつけ、その後方に自動洩れ止め式の防弾タンクを増設した。  大本営発表のニュースが事実をいかに|糊《こ》|塗《と》しようとも、このような零戦改修の要求は、そのまま零戦の苦戦ぶりを、そして、日本軍の窮状を雄弁に物語っていた。零戦の最初の計画要求に、一行たりとも触れられていなかった防弾の要求は、そのなかの|最《さい》たるものであった。よく、零戦の数少ない欠点の一つとして、この防弾の欠如があげられることがある。その最大原因は、まだ日本では大馬力の出る優秀なエンジンがなく、軽快な運動性、長航続力、重兵装の要求が優先したため、重量的に防弾をつける余裕がなかったことである。さらに当時の日本の戦闘機パイロットのあいだに、腕を|磨《みが》きに磨いた剣士が、軽快ないでたちで動きまわり、よろい、かぶとに身をかためた多くの敵をなぎたおしてゆく、|寡《か》をもって|衆《しゅう》をたおす剣法に似た考えかたが支配的だったことが、この傾向に拍車をかけていた。たしかに、圧倒的な攻撃力は、そのまま最大の防御となりえた。しかし、その攻撃力が対等に近くなり、また、飛行機自体の攻撃力はまさっていても、パイロットが未熟練であったり、量的にあまりにも敵が優勢な場合は、とうぜん被弾をまぬかれず、防弾が不可欠なものになるのだ。  つぎつぎと、分不相応な防弾や火力を背負わされて飛び立って行く零戦の姿は、まさに、この戦いにおける日本の行く末を暗示していた。  アメリカは、日本軍の南方におけるもっとも重要な基地の一つであったラバウルを孤立・無力化させると、それを飛びこえて日本軍の拠点をつぎつぎにおとしいれ、いよいよ日本本土に向かって北上する作戦をとった。ここにいたって、戦いの様相は、あきらかに日本のジリ貧となってきたのであった。  日本にとって、飛行機生産の最大の支障となるのは原料の補給だということはまえにも書いたが、このころから目に見えて南方からの原料の輸送が減ってきた。これは、敵潜水艦によって南方からの輸送船が|遮《しゃ》|断《だん》寸前になっていたからであった。国内では「一億火の玉」というかけ声のもとに飛行機の増産にはげんでいたが、その生産は十九年の夏に頭打ちとなり、それ以後は、人手と資材の不足から急に下り坂に向かっていった。さらに、マリアナが陥落し、そこにアメリカの一大基地ができてから、B‐29による本格的な本土空襲がはじまり、飛行機の生産だけでなく、あらゆる活動が不自由になってきた。悪いときには悪いことが重なるもので、その年の十二月七日、東海地方に死者一千人も出るような大地震が起こった。地盤のやわらかい東西の海岸埋立て地にあった三菱と愛知の航空機工場は、コンクリートの床に|亀《き》|裂《れつ》が走り、機体の組み立てにもっとも重要なジグ(枠組み)が狂ってしまい、一部の建物は崩壊した。  ジグの狂いを修正しているあいだに、B‐29の編隊が十二月十三日に三菱発動機工場を、つづいて十八日に三菱と愛知の航空機工場を空襲した。私も工場でこの空襲に会い、サイレンを聞いて工場外の空地に退避した。溝に身を伏せて遠雷のような爆音のする方向を仰ぐと、一万メートルとおぼしき高度を、灰白色の美しいB‐29十数機の縦列が、東方から悠々と工場の上空に近づいてくるのが見えた。爆弾が空気をつん裂いて落下する鋭い音に、思わず身をすくめると、つづいて工場の中で爆裂音がした。十三日には発動機工場でかなりの人数の死者を出した。これが本格的な本土空襲の前ぶれであることは明白だった。  そこで、それまで生産増強の要請と、疎開にともなう生産低下のジレンマに苦慮していた政府と軍当局も、ついに航空機をはじめとする重要工場の緊急分散を発令するにいたった。  こんななかで雷電はすでに制式決定がなされていたが、視界不良や振動問題などのため、はじめの生産計画はつまずき、大量の戦線投入はできなかった。烈風は、エンジンを私がはじめから主張していたものに換え、「零戦の再来」とまで言われて大きな期待がかけられるようになったが、その追加試作や飛行試験は思うように進まなかった。国民は「一機でも多く飛行機を」を合言葉に、自分の所持品のなかから出せるだけの銅鉄製品を供出した。また、不足を告げる燃料、滑油の一助となるように、松の根を採ったり、ヒマの実を栽培したりした。しかし、このような国民の血の出るような努力も、実を結ばずにしまった。     |神《しん》|風《ぷう》特攻隊  十九年の十月下旬の新聞に、「|神《かみ》|鷲《わし》の忠烈、万世に|燦《さん》たり」「敵艦隊を捕捉し必死必中の体当たり」という見出しで、神風特別攻撃隊の記事が大きく報じられた。私は、六月マリアナの陥落を知ったとき、日本の敗戦は決定したとは思っていたが、この記事を読んで「ついにここまで追いつめられたか」という感じをいっそう強くした。その後も新聞などで、特別攻撃隊の敵艦への体当たり攻撃がつぎつぎと報道された。これらの特攻は、強大なアメリカ軍のフィリピン上陸作戦に対する総攻撃防御作戦を命じられた第一線の指揮官が、中央からの指令によらず、追いつめられて決行した用兵法であることが、新聞の報道で察せられた。あまりにも力のちがう敵と|対《たい》|峙《じ》して、|退《ひ》くに退けない立場に立たされた日本武士が従う作法はこれしかあるまいと、私はその痛ましさに心の中で泣いた。ほどなく私は、この神風特攻隊の飛行機として零戦が使われていることを知った。また、何もかも戦争のためという生活に疲れ、絶望的になりかけていた国民を励ますように、「ベールをぬいだ新鋭戦闘機」として、零戦の名が新聞その他に公表されたのは、この直後の十一月二十三日のことであった。  ここまでこの原稿を綴ってきて、私は、当時私自身が書いた「神風特攻隊|景仰頌詞《けいぎょうしょうし》」という短文を取り出して読んでみた。これは、十九年十二月のはじめ朝日新聞社大阪本社出版局が『神風特攻隊』という本を出版するについて、各界十人の人の中に零戦の主任設計者である私を入れて、めいめい特攻隊をたたえる短文を書いてほしいという依頼があって書いたものである。しかし、仕事が忙しかったこともあって、筆はなかなか進まなかった。  多くの前途ある若者が、けっして帰ることのない体当たり攻撃に出発していく。新聞によれば、彼らは口もとを強く引きしめ、頬には静かな微笑さえ浮かべて飛行機に乗りこんでいったという。その情景を想像しただけで、胸が一ぱいになって、私は何も書けなくなってしまった。彼らがほほえみながら乗りこんでいった飛行機が零戦だった。  ようやく気をとりなおし、この戦いで肉親を失った人びとに代わってこの|詞《ことば》を書くのだと自分に言いきかせながらペンを取ったが、書きながら涙がこぼれてどうしようもなかった。そして、「|襟《えり》を正して|応《こた》へん」という題をつけて、その短文を書きあげたのは、依頼されてから|一《ひと》|月《つき》もたった二十年の正月休みのことである。私に、手ばなしで特攻隊をたたえる文など書けるはずがなかった。なぜ日本は勝つ望みのない戦争に飛びこみ、なぜ零戦がこんな使い方をされなければならないのか、いつもそのことが心にひっかかっていた。もちろん、当時はそんなことを大っぴらに言えるような時勢ではなかった。しかし、つぎのような一節だけでも強く訴えたかった。 [#ここから1字下げ]  ……敵は富強限りなく、わが生産力には限界あり。われは|人《じん》|智《ち》をつくして|凡《あら》ゆる打算をなし、人的物的エネルギーの一滴に至るまで有効に戦力化すべき凡ゆる体制を整へ、これを実行しつくしたりや、内にこれを実行し、外神風特攻隊あらばわれ何ぞ恐れん。…… [#ここで字下げ終わり]  私がこの言葉に秘めた気持ちは、ひじょうに複雑なものであった。その真意は、戦争のためとはいえ、ほんとうになすべきことをなしていれば、あるいは特攻隊というような非常な手段に訴えなくてもよかったのではないかという疑問だった。     終 戦  昭和二十年にはいると、一月、二月、三月と、B‐29の空襲はますますはげしさを加えた。名古屋の上空はとくにひんぱんに高空を悠々と飛び去りながら爆弾を落としてゆくB‐29の編隊が出没した。航空機と航空発動機工場は、爆撃の最優先目標にされた。けたたましく空襲警報のサイレンが鳴り、見上げる私たちの頭上では、陸軍の戦闘機が死にものぐるいでB‐29に突進し、体当たりするのを見たこともあった。私は、その姿に南方での零戦の姿を見た。  さいわい私の自宅はその被害を受けなかったが、帰宅途上の街のところどころは、無残な焼け野原となり、空戦のあとをとどめる飛行雲がまだ漂っている高空まで、煙を巻きあげていることもあった。  会社の工場は、機種ごとにわかれて各地に疎開を開始し、試作工場を含む私たち技術部門は松本、長野地方にうつることになった。私が家族とともに松本に疎開したのは、同年の五月のことであった。このように、工場の疎開と、個人の疎開とが重なり、輸送、通信は半身不随となり、だれもが毎日を落ち着かない気分で送っていた。工場設備はなかなかそろわず、材料や部品の入手の不自由なこんなとき、意欲はあっても生産が停滞するのはあたりまえだった。前年十一月までは三菱の工場で月産百機をくだらなかった零戦の生産が、二十年七月には、わずか十五機がやっとという状態になってしまった。  このような本土のありさまからも、もはや終戦は時間の問題だと思われた。  そして、八月十五日の正午、私は終戦の玉音放送を疎開先の松本郊外の間借りしていた家で聞いた。松本の夏は、山国とくゆうの透明な空気のため直射日光が焼けつくように暑い。その日も、肌にひりひりするような炎天の下を自転車で帰宅すると、いつものように水でしぼった手拭いで体をふいた。昼食には家に帰る習慣になっていたが、この日は、朝のラジオ放送で正午ごろ重大な放送があるというので、昼食どころではなく、ラジオの前にその家のご主人夫妻と妻といっしょにきちんとすわった。  録音盤のすれる音で、天皇陛下の沈痛なお声は半分ほどしか聞きとれなかったが、予期したとおり、まさしく終戦の|詔勅《しょうちょく》であった。四人はその場にうつむき、目からあふれ出る涙をけんめいにこらえようとした。それぞれの胸のうちには万感がこみあげたが、いまはそれを言葉にする気力もなく、私は「これで私が半生をこめた仕事は終わった」と思った。それと同時に、長い苦しい戦いと緊張からいっぺんに解放され、全身から力が抜けていくのを覚えた。これで飛行機とは当分、いや一生お別れになるかもしれない、そう思うと寂しく悲しかった。この十年間私たちは充実した日を送った。しかしその間、日本の国はなんと愚かしい歩みをしたことか。愚かしいのは、日本だけではなかったかもしれない。しかし、とくに日本はこれで何百万という尊い人命と、国民の長年にわたる努力と蓄積をむなしくした。一口に言えば、指導層の思慮と責任感の不足にもとづく政治の貧困からであった。いまこそ、「誠心英知の政治家出でよ」と私は願った。     零戦は生きている  その後、終戦の混乱期のなかで私が体験したことは、すべての日本人に共通するものだったろう。思い返してみると、戦時中以上の肉体的、精神的苦労の連続のなかに、数かずの懐しいできごとが浮かんでくる。戦後十数年にして、日本はあの戦後の|瓦《が》|礫《れき》の中からみごとに立ちあがった。そして、二十五年目の今日、物質的にはもはや戦争の影などどこにも見られないような繁栄ぶりを現出した。私の身辺にも、いまはなんの波乱もなく、あの零戦やほかの飛行機とともに味わった長い苦闘と短い喜びを織りなした何年かの月日が夢のようである。  しかし、私にとってこの体験は、数かずの貴重な教訓をもたらし、戦後の私が生きる|礎《いしずえ》ともなってくれた。  私は、少年時代からどちらかというと口べたではにかみ屋であった。私の武器は、納得がゆくまで自分の頭で考えることだった。裏づけのない議論のための議論はきらいで、実物と実績で見てもらいたいという主義だった。七試艦戦、九六艦戦、零戦、という困難な仕事を手がけ、これこそが、技術に生きる者のよりどころであることを、身にしみて感得した。  技術者の仕事というものは、芸術家の自由奔放な空想とはちがって、いつもきびしい現実的な条件や要請がつきまとう。しかし、その枠の中で水準の高い仕事をなしとげるためには、徹底した合理精神とともに、既成の考え方を打ち破ってゆくだけの自由な発想が必要なこともまた事実である。与えられた条件がどうにも動かせないものであるとき、その条件の中であたりまえに考えられることだけを考えていたのでは、できあがるものはみなどんぐりのせいくらべにすぎないであろう。私が零戦をはじめとする飛行機の設計を通じて肝に銘じたことも、与えられた条件の中で、とうぜん考えられるぎりぎりの成果を、どうやったら一歩抜くことができるかということをつねに考えねばならないということだった。  思えば零戦ほど、与えられた条件と、その条件から考えられるぎりぎりの成果の上に一歩ふみ出すための努力が、象徴的にあらわれているものはめったにないような気がする。きびしい条件とのたたかいには、もちろん完全無欠の勝利ということはありえない。零戦にも、欠点と称されるものがいくつもあげられている。しかし、どんなものでも、それを技術の面から評価するとき、そこに与えられていたいろいろな条件を、十分考慮したうえで評価しないと、真実を見誤ることになりかねない。零戦の欠点と称されるものについて考えるときも、このことを忘れてはならないと思うのである。このことを、私の後輩の航空技術者である|内《ない》|藤《とう》|一《いち》|郎《ろう》氏は、月刊誌「丸」(昭和三十八年六月号)のなかで、つぎのように簡潔に、しかも余すところなく語ってくれている。 [#ここから1字下げ]  零戦がすぐれた飛行機であることを肯定しながらも、強度不足だ、突っこみがきかない、防弾がない、高高度性能が不足だのと、いろいろの批評を耳にすることがある。  その多くは|一《いっ》|知《ち》|半《はん》|解《かい》の|妄《もう》|言《げん》にすぎない。またよしそうであったところで、考えてみられたい。わずか一千馬力そこそこのエンジンをつけた飛行機で、この零戦の半分も有能な戦闘機が昔も今も世界のどこに実在したかを……。 [#ここで字下げ終わり]  内藤氏の評言に蛇足を加えることになるかもしれないが、確かに零戦の欠点と言われるもののほとんどは、その低馬力のエンジンという条件に起因していると言ってよい。まず防弾についてはすでにちょっと触れたが、根本的には、日本が先進国にくらべてエンジンの馬力がつねに二割か三割少ないにもかかわらず、飛行機の性能では張り合っていかなければならなかったという事情から発したことである。このため、必然的に、あれもほしいこれもほしいという多くの要求を総花的に盛りこむことはとても不可能となり、数かずの要求のうちから、正しく優先順位を見つけ出し、その順位によって飛行機を具体化していかなければならなかった。そのことが、日本ではどの国よりもきびしく要請されていたのである。  この考えに立てば、戦闘機に防弾がなかったとしてもこれはとうぜんである。なぜなら、その優先順位というのはもちろん機種によって異なり、たとえば、爆撃機などでは、いくら速度が速いといっても、昼間、敵の戦闘機に狙われたら被弾をまぬかれない。つまり、爆撃機にとって、防弾は優先順位の高い要求なのだ。事実、日中戦争の初期に被弾火災の多かった九六式陸上攻撃機の教訓を忘れて作られた一式陸上攻撃機は、太平洋戦争初期から、燃料のはいっている翼の下面に、ぶざまな厚い漏れ止め用ゴム板を張らなければならなくなったのである。  しかし、戦闘機では、防弾は、飛行機の性能とパイロットの腕である程度おぎなうことができる。つまり、戦闘機では、防弾の優先順位が低かったのである。そして、パイロットの熟練度が低く、しかも量と量とで戦う場面が多くなるにつれて、防弾の必要性が増すという性質のものなのだ。それが証拠に、開戦後一年五ヵ月たった昭和十八年四月末に海軍航空本部が作った「将来戦闘機計画上の参考事項」の中では、つぎのように言われている。 [#ここから1字下げ]  零戦は総合性能|概《おおむ》ね優秀にして、現状において南西方面に出現の米戦闘機(F4Uをさす)に対して特に|遜色《そんしょく》を認めず。……  戦闘機といへども将来は[#「といへども将来は」に傍点]、防弾を考慮するを要す。 [#ここで字下げ終わり]  つまり、「戦闘機といへども[#「といへども」に傍点]」という言葉に端的に現われているように、当時は防弾などに|憂《う》き|身《み》をやつすより、防弾に費やす分だけでも重量を減らして運動性をよくし、攻撃力を増すほうが有利だったのだ。防弾が必要なのは将来であり、そのころまでは、むしろ防弾の欠如は、攻撃力を強めるという積極的な意味をもっていたのである。事実、零戦に対して防弾が必要となったのは、のちにアメリカが反攻の勢いを増し、圧倒的多数の大馬力の新戦闘機を戦線に投入しはじめてからであった。  つぎに速度、とくに急降下速度の不足については、一千馬力のエンジンをもって制空、|掩《えん》|護《ご》、迎撃の三つの任務をはたすために最適の翼面積を選べば、あれ以上の速度は無理であり、|神《かみ》|業《わざ》を要求するに等しかった。その証拠に、一千馬力級の空冷エンジンをつけた戦闘機で、航続力、空戦性能を度外視しても、零戦以上の速度をもったものが、後にも先にも世界のどこにも実在しなかったのである。  高高度性能の不足については、中型空母から発艦しなければならない艦上戦闘機に、大戦後期の本式の高高度迎撃機と同じ性能を要求するのはまったくの見当ちがいである。高高度迎撃専門の戦闘機にさえも、零戦の三二型につけた二速過給器より強力な過給器、たとえば、排気タービン式や多段機械駆動式の過給器は、日本では実用化がまにあわなかったからである。  このように、飛行機にかぎらず、同種類の製品を比較し優劣を判断するのは、やさしいようでいてなかなかむずかしい。とくに、同時代の製品を比較するには、その性能のデータを念入りに対比すれば公平にできるが、時代のちがった製品を比較する場合はそうかんたんにはいかない。なかでも、飛行機や自動車の世界、とくに飛行機では、日進月歩の技術のほかに、同種同クラスでもあとからできるモデルのエンジンの馬力は大きくなってゆくのがとうぜんだから、あとからできるものは二重によくなる理由がある。全体の進歩向上のうち、どれが馬力の増加により、どれが時代による技術の進歩により、どれが時代を抜いたアイデアによるかという分析をしてはじめて、意味のある比較ができるのである。  また戦時中に実用された飛行機なら、その飛行機が生産された数に対して、どのくらいの戦果をあげたかを調べるのも、大ざっぱながら便利で正しい方法である。もっとも、零戦のように五年間も馬力が一割も上がらないで闘いとおした飛行機では、同時代同級の選手と戦った前期と、ずっとヘビー級の選手と戦った後期とに、分けて考えなければ不公平であろう。生産も終戦の日まで六年間も続けられ、三菱、中島両社あわせた生産総数は一万四百二十五機に達したのである。  この方法が便利だというのは、一般商品にも通用する考え方だからである。ともに同時代の製品がぶつかるのがふつうだし、ともに、アイデアとタイミングがよくなければ戦果は上がらない。アイデアとタイミングは、その製品の性質をよく理解し、環境や競争相手の状況をおしはかり、よい判断と実行力がともなって生まれるものである。  アイデアというものは、その時代の専門知識や傾向を越えた、新しい着想でなくてはならない。そして、その実施は人より早くなければならない。戦果をうるには、時代に即応するのでなく、時代より先に知識を磨くことと、知識に裏づけられた勇気が必要である。後進国が先進国と肩を並べるには、それだけの覚悟が必要なのだ。  これを銘記しないと、どんな企画でも、いま目のまえに見ている世界の一流品を目標にして、それに近づくための演習に終わってしまい、これを抜くことができなくなるおそれがあるのである。  日本人は、とかくこのようなアイデアにとぼしく、小器用で人まねだけがうまいと言いたがる人がいるが、私はけっしてそうは思わない。零戦について私が言うのははばかられるが、零戦における総合的な構想と、いくつかの個々の技術の成果は、戦後二十幾年の今日になっても、日本ばかりでなく広く世界の人びとから賞賛と驚嘆の言葉を寄せられている。その数はおびただしいが、そのいくつかを紹介してみると——。  たとえば、イギリス最大の航空機会社ホーカーの計画設計主任J・W・フォザード氏はイギリス航空学会誌一九五八年十一月号のなかで、 [#ここから1字下げ]  ヨーロッパ人は、日本人が模倣に終始したように思いたがるが、日本の代表的飛行機である零戦の詳細を知れば、それがあやまりであることをさとるであろう。  その例として、くりかえし変動負荷の組み合わせに対する|主《しゅ》|桁《けた》の寿命の研究や、フラッタ、風洞模型の力学的相似性の認識が、当時すでに日本ではじめられていたことを挙げることができる。  なかでも、われわれヨーロッパの水準から見て、もっとも驚嘆にあたいする工学上の構想・手法は、操縦系統の剛性を計画的に引き下げる考えであろう。この独創的構想によって、低速時の|昇降舵《しょうこうだ》の効きをそこなわずに、高速時の|操縦桿《そうじゅうかん》の動きを適当に増し、むずかしい操縦感覚の問題をみごとに解決している。 [#ここで字下げ終わり]  と、|賞《ほ》めてくれた。また、この操縦応答性に関しては、一つ興味深い調査がアメリカで行われた。一九六二、三年ごろ、コーネル航空研究所では、アメリカ空軍の委託をうけて、三人のパイロットを使い、シミュレーター実験によって、パイロットが好む、つまりパイロットの操縦感覚にマッチする昇降舵操縦系統の性質を研究した。そして、その結果は、私が二十年もまえに零戦に採用したものにぴたりと合っていた。  一九六三年、新戦闘機選定のいきさつを調べたアメリカの上院調査委員会で、海軍作戦部長W・G・アンダーソン大将は、その証言の中に零戦を引き合いに出し、 [#ここから1字下げ]  過ぐる太平洋戦争のはじめ、日本の零戦は、われわれのどの戦闘機よりも運動性と行動力でまさっていた。その差はひじょうに大きなものとは見えなかったが、零戦によるわが国のパイロットと航空機の損害、および零戦が護衛してきた雷撃機や爆撃機による味方の艦船の損失はきわめて重大であった。  零戦のもっていた|優《ゆう》|差《さ》は、拳闘のチャンピオンが、相手より一インチ長いリーチ(攻撃の届く深さ)をもっているのにたとえることができる。航空機の場合、ひじょうな強さを示すものでも、一般に個々の性能の数字で見れば、大した差ではないのである。われわれはこの小差の集合から生まれる優差をわが手に握る必要があるのだ。 [#ここで字下げ終わり]  と述べている。(アメリカ最大の航空雑誌「エヴィエーション・ウィーク・アンド・スペース・テクノロジー」一九六三年四月十五日号より)  航空史上その名を残す飛行機は数多いが、二十年後までも議政壇上で引き合いに出されるとは、当時零戦がアメリカの専門家に与えた印象が、いかに強烈だったかがわかる。  イギリスの有名な航空機評論家W・グリーン氏は、その著書『フェイマス・ファイターズ・オブ・ザ・セコンド・ワールド・ウォー』の中で、 [#ここから1字下げ]  第二次大戦において零戦は日本にとってすべてであった。零戦は日本軍の作戦を象徴し、零戦の運命は日本国の運命と同じであった。  零戦が各国の代表的戦闘機とちがうのは、陸上戦闘機に打ち勝つ性能をもった世界最初の艦上戦闘機という点で、海軍航空に新紀元を画した飛行機という名誉をもつことである。  零戦は太平洋戦争の初期に連合軍の航空兵力を壊滅させることによって、“無敵日本軍”という神話をつくり出した。神秘的な運動性と長大な洋上行動力は、連合国に“無敵零戦”の神話を信じこませるような強制力をもっていた。 [#ここで字下げ終わり]  と述べている。  これらはいずれも、かつては敵同士であり、当の零戦によって、幾多の人命と飛行機や艦船を失った国の人びとの言葉であるだけに、私はうれしい。  なかには、日本の一部の学者のように、「なるほど日本には最終製品としては零戦のようなすぐれたものがあったが、基礎研究をやらずに基礎知識は先進国に頼ってばかりいた」という批判をする人もある。私も、かなりそういう面があったことは認めるが、それは日本が航空科学の分野で完全に世界の先進国の仲間入りをしていなかったからであり、よいわるいというべき問題ではなくて、むしろ当然のことだと思う。あらゆる分野で絶対の先進国になれば、外国の知識を借りる必要はないだろうが、現実には、経済の原則からいっても、世界に先に開発した知識があればそれを借り、他の面を新しく開拓して、そこから得た知識を貸してやるほうが、人類全体のためにも賢いやり方であろう。よい最終製品を開発する努力をし、それに必要な知識を求める過程で、新しいアイデアや、一歩奥へ踏みこんだ新しい何かを発見することが多いのである。零戦についても、このようなことが言えると思う。  このように、零戦こそ当時の日本人の創意と不断の努力が、みごとに結晶したものだったということを、多くの日本人および世界の人が認めてくれている。そして、その零戦を生み出した技術の伝統や技術者魂は、いまもなお、日本人の中に生きていると思う。当時、喜びと苦しみをともにした多くの|仲《なか》|間《ま》も、まだ大部分健在で、航空技術だけでなく、広く日本の技術がさらに飛躍するよう尽力されている。私は、私の半生をかけたこの零戦が、なおも日本の技術と日本人の心の中に生き続けているのを知って、深い|安《あん》|堵《ど》と満足を覚えるのである。 初刊=『零戦——その誕生と栄光の記録』(一九七〇年、光文社刊) 講談社文庫版は、一九八四年一二月刊。本電子文庫版は、講談社文庫版第二刷を底本とし、口絵写真・図版・解説は割愛しました。 [著者]堀越二郎  一九〇三年、群馬県生まれ。一九二七年、東京大学工学部航空学科を卒業、三菱内燃機株式会社(現・三菱重工業)に入社、名古屋航空機製作所に勤務。「七試艦上戦闘機」「九六式艦上戦闘機」「零式艦上戦闘機」「雷電」「烈風」と数々の名戦闘機を設計・開発した。戦後は、初の国産旅客機「YS11」の設計にも参加。日本航空学会会長、東大宇宙航空研講師、日本大学講師、防衛大学校教授などを歴任した。一九八二年一月、七十八歳で死去。 |零《ゼロ》|戦《せん》 その|誕生《たんじょう》と|栄《えい》|光《こう》の|記《き》|録《ろく》 |堀《ほり》|越《こし》|二《じ》|郎《ろう》 著 (C) Yuji Horikoshi 2000 二〇〇〇年一二月八日発行(デコ) 発行者 中沢義彦 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社